案内   小説   イラスト   リンク   日記   トップ
 高校二年生の春。新学期。
 この転校が何度目なのかは考えたくない。心と体にある、転校数以上の傷跡が痛むから。
 新しい学校。知らない人々。一から始める。
 今度こそ、うまくやる。予想外の出来事が起きないように、友達に知られないように、隠し通す。そして、好きな娘ができても、絶対に想いを告げたりしない。その娘に好きだと言われても、絶対に応えたりはしない。付き合ってしまえば、あたしは黙ってはいられないのだから。
 あたし自身の中途半端な部分を――


干からびるミミズ



 あたしが転入生特有の人気をようやく失った放課後。
 朝はあんなに天気が良かったのに、空はいつの間にか雨模様。傘を持ってきていないから、降られる前に帰るしかない。傘を持っている人と帰るという案もあるけれど、あたしにはまだ友達と認識できる存在がいない。これを機にクラスメイトと交流するにしても、雨模様では不充分なのだ。実際に降っていなければ、人に近付く口実を得られない。我ながらこの性格が嫌になる。
 学校を出てしばらく小走りしていたら、突然滝のような雨に見舞われた。驚きで、あたしの体は思わず止まってしまう。
 いくらなんでも本降りが早すぎる。おかげで道順が吹っ飛んだ。
 辺りが霞んで建物の色もよく見えないほどの、ひどい大雨だった。ある程度の年月をここで過ごしてきた人なら問題ないだろうけれど、あたしは引っ越してきたばかりで土地勘がない。視界にあるのは、ここ数日で見てきた通学路とは全く違う景色。あたしの家は大通り外れの少し入り組んだ場所にあると覚えている。でも残念ながらそれは、自分がどこにいるのかさえ把握できてない人間にとっては必要のない情報だった。
 だからあたしは、止まった足を動かさない。
 道に一人で迷子。孤独なあたしに、雨は激しい追い討ちをかける。見えないところに刻まれた傷跡が疼いて、今までのことを鮮明に思い出させる。
 だからあたしは、止まった足を動かせない。
 ――気持ち悪い――
 ――近寄らないでよ!――
 ――こいつきっと人間じゃないんだよ。ためしに切ってみよう。緑色の血が出るんじゃない?――
 ――赤だ。つまんなーい。他のとこもやってみたら?――
 過去が襲ってきて、あたしはその場にうずくまる。
 怖い。動けない。痛い。心は引き裂かれる。切り傷は抉られる。痛い。
 どれくらいの時間そうしていたのか。
 不意に――雨がやんだ。
「風邪でもひきたいの?」
 あたしに傘を差しかける人が、いる。
 同じ高校の女の子だった。鋭い目が印象的な。
「違うなら、うちのシャワー貸すけど」
 攻撃性も温かみも感じられない、ただただ鋭い目であたしを見下ろしてくる。
 射竦められた。
 動けるものか。
「じゃあ、ついてきて」
 沈黙をなぜか肯定に取られてしまった。
「……さっさと立ったら?」
 彼女は鋭い目を向けてくるだけで、あたしに手を差し伸べはしなかった。


「今は誰もいないから、ゆっくり浴びていいわ。シャンプーとかは適当に使って」
 彼女はそう言い残し、あたしを脱衣所に置き去りにした。
 本当は、家に到着する前にちゃんと断ろうと思っていた。でも、それを伝える時間は与えられなかった。なんと、あたしがうずくまっていたのは彼女の家の門の真ん前。声をかけられた理由が判明した。
 とりあえず、水を含んで重くなったブレザーを洗濯カゴに入れる。ネクタイも同様に。さて、ここからが問題。人の家で服を脱ぐのには抵抗がある。恥ずかしいからじゃない。
 あたしの体は、普通とは違うから。加えて中途半端だから。
 今からでも帰ろうか。でも、ここまで来てシャワーを借りずに帰る方が失礼になるんじゃないだろうか。家の前にうずくまっていたからといっても、びしょ濡れのあたしを家に上げてくれた彼女の厚意を無駄にするわけにはいかない。
 もしかしたら、これがきっかけで友達になれるかもしれないし……。
 しばらく考えた挙げ句、あたしはブラウスのボタンに手をかけた。
 濡れているせいで生地が肌に張り付き、背中に無秩序にちりばめられた傷跡が刺激される。ブラも外すと、ふと正面の鏡が目に入った。あたしの右胸から谷間にかけて、斜めに茶褐色の線が盛り上がっている。
 傷自体は治っているのに。
 雨のせいで、痛い。
 ハイソックスを脱いだそこに傷跡はない。見つかりやすい場所だから。ホックを外し、スカートを下ろす。左内ももの太さを測るように走った傷跡も茶褐色に盛り上がっている。体にある傷跡の中で最も大きい。切りつけられる“理由”に近い場所のせいだろう。
 よみがえる、血が溢れる鮮明な映像。頭を動かして振り払う。
 今までの人たちは、“理由”そのものを傷付けてはこなかった。あたしを攻撃する理由がなくなってしまうから。
 下着を下ろす。あたしが今までの学校の人たちに傷付けられてきた理由が、そこにある。
 上半身しか映らない鏡の中のあたしは、女の子。
 鏡に映らない場所は、男の子。
 心も、女の子なのに。体はそうじゃない。女の子の体に、男の子が部分的に付属している。
 どっちも付いているという時点で、あたしは今まで忌み嫌われるか攻撃の対象だった。予想外の出来事で意図とせずに体の秘密が知られてしまうと、友達は一瞬にしていなくなった。敵にさえなった。秘密を恋人に打ち明けても、理解してはくれなかった。嫌われた。
 転校の度に、同じことの繰り返し。
 また、過去が襲ってくる。
 ――そんな目で見ないで――
 ――あたしのこと好きだって言ってくれたのに――
 ――みんなに……言ったの?――
 ――やめて! お願い、切らないで!――
 完全に恐怖で支配された。体が強ばって動かない。
 あたしは一つ前の学校で、皮膚の下の肉が空気に触れるより先に血液がそこを覆ってしまうことを知った。体を押さえ付けられていたから。無理矢理見させられたから。目を逸らすことは許されなかったから。
 最近、カチカチという音が聞こえると、落ち着いてはいられなくなる。たとえそれが、カッターの刃を出す音じゃなかったとしても。
 そして、
「何よ、その体……」
 その声で。
 “現在”に襲いかかられていると知った。
「ごめん。ノックはしたんだけど」
 ノックなんて、過去に支配されていたあたしには聞こえなかった。返事をしなかった。だから彼女は、あたしがすでに風呂場に行ったと思って脱衣所のドアを開けたのだろう。
 これは、予想外の出来事とは言えない。どうしてこんな簡単なことを考えなかったのか。彼女がタオルや着替えを脱衣所に置きに来ることを。すぐに戻ってくることを。特に、あたしは予想して考慮するべきだったのに。
 タオルと着替えを抱えた彼女の黒眼は上下していた。あたしの胸と股間を往復している。
 見ている。見られている。
 目は大きく見開かれていたけれど、鋭いことには変わりない。怪訝そうに眉間にしわを寄せ、体を震わせている。彼女の眼光に切り裂かれてしまいそうだった。
 どうしよう。怒らせた。どうすることもできない。
 あたしはやっとのことで、でも崩れるようにしてうずくまる。
「見ないで……」
 そう言うのがやっとだった。
「ミミズみたいね。それが転校の理由?」
 押し殺した声には、すぐに言葉を返せないほどの凄みがあった。腕に抱えているタオルを力の限りに握り締めていることからも、大きな怒りが伝わってくる。
「ご、ごめんなさい。でも、ミミズとは……違うよ。ミミズは雌雄同体だから、みんな。あたしは人間で、本来性別が二分されるはずの生きものだから――」
「知ってるわよ」
 説明が遮られてあたしは気付く。
 彼女はもう攻撃態勢に入っているのだ。
「誰にも、言わないで……」
 震える声と一緒に、涙がこぼれるのが分かった。
 雨の中で傘を差しかけてくれた人が、無条件に優しいとでも思っていたの?
 あたしの体を見ても優しいままだとでも?
「濡れた服で帰るんじゃないわよ?」
 それは、あたしの懇願に対する承諾でも拒否でもなかった。彼女は抱えていたものをその場に置き、怒りのこもった手でドアを勢い良く閉めて脱衣所を去った。
 あたしの体の秘密を知ると、彼女は即座に言葉で攻撃してきた。やっぱり、今までの人たちと同じだ。
 それなのに着替えを差し出すなんて、着替えて帰れなんて、どういうつもりなのか。ただ、それが優しさじゃないことは経験上知っている。
 これは逆らってはいけない“命令”だ。
 涙を手の甲で拭って、彼女が置いていったものを手に取る。バスタオル、タオル、セットの下着、Tシャツ、靴下、ジャージ上下、ビニール袋数枚。
 雨に降られた身にはありがたい、お風呂上がりを想定したセット。でも、彼女に体の秘密を知られてしまったあたしが、どうしてのんびりシャワーなんか浴びられるだろうか。
 そそくさと命令どおりに服を着る。ブラはきつかったので、自分のものを着けた。やっぱり濡れているから気持ち悪い。でもどうせ傘までは貸してくれないだろうから、ここを出たら気にすることもなくなるだろう。
 脱いだものをビニール袋に詰め込み、鞄を持って脱衣所を出る。当然のことだと思うけれど、見える範囲に彼女はいなかった。
 捜してはいけないのだ。
 雨脚は全く弱まっていなかった。幸いなことに風は強くなかったので、横殴りされる心配はなさそうだ。そして、あたしには傘がある。靴の上に乗っかっていたのだ。
 この体を見た時、明らかに怒っていたのに、ミミズみたいだと蔑んできたのに。着替えを置いていったり傘を置いていったり、まるであたしの体を気遣うようなことをして。
 彼女が何を考えているのか分からない。
 体に雨が当たらないだけで、だいぶ冷静になれた。ゆっくり行けば帰り道も分かりそうだ。あたしは無心を心がけて歩く。
 自宅の玄関を閉めると、自然と涙が溢れてきた。ぼろぼろ落ちるのを止められなかった。
 転校してすぐに秘密を知られるなんて……。
 やっぱりあの時に帰っていれば良かったのだ。雨の中で道に迷っている方がまだマシだった。友達になれるかもしれないなんて思って、バカみたいだ。彼女が声をかけてくれたのは、今までの人たちが仲良くしてくれたのは、あたしを“普通”だと思っていたからなのに。
 もうダメだ。明日にはきっと、みんなに知れ渡っている。
 だって、彼女は今までの人たちと違って、『誰にも言わない』という約束さえしなかったのだから。
 雨に打たれているわけじゃないのに、体中の傷跡が疼いていた。


 翌日は快晴だった。
 学校に着くまでの間は人目を気にしながら歩き、教室に到着してからは戦々恐々と辺りを窺った。誰かがあたしを見る度に、体の秘密を知られているんじゃないかと思えた。知られていてもおかしくはない。今までもそうだったのだから。
 突然、肩を叩かれた。
 息が止まりそうになって、恐る恐る振り返る。隣の席の子が挨拶してきただけだった。できるだけ落ち着いた風に見せて応えた。この子は笑顔だけれど、本当に笑っているのだろうか。腹の中では違う笑みを浮かべているんじゃないか。つい、そう考えてしまう。
 移動教室をいくつか挟んだ午前中のうちに分かったことが一つ。あたしに視線をやる人や指を差す人がいたけれど、それは転入生に対する反応という領域を出ていなかった。知っているけれど隠しているというわけでもない。それくらいの違いは分かる。
 それくらいの違いが分かるくらいに、あたしは転校しているのだ。
 つまり、あたしの秘密は知られていないらしい。でもこれだけじゃ、彼女が誰にも話していないという証明にはならないのだ。あたしは、この学校にいる全員の視線を確認したわけじゃない。それに、学校関係者以外に話した可能性だってある。
 お昼は隣の席の子が誘ってくれた。他に二人いて、あたしは差し障りのない会話をしながらお弁当をつついていたけれど、楽しい時間とは言えなかった。当然、味を感じる余裕もない。
 放課のチャイムが鳴ったのを聞いて、少しだけ安堵した。帰れば、誰の目も気にせずにいられる。万一誰かに誘われる前に、帰りの支度を済ませてしまおう。帰ってしまおう。
 そう思っていたら、朝のように肩を叩かれた。それが隣の席の子だって分かっていても、驚かずにはいられなかった。この人はもしかしたら放課後を利用して、転入生と交流を深めようとしているのかもしれない。
 交流という名目で何かする気かもしれない。
 どう言って断ろう?
 いやその前に、断れるだろうか。発言を許させるだろうか。
「呼んでるよ。あの……気を付けてね」
 お誘いではないらしい。声の震えで、なんとなく怯えているんじゃないかと思った。あたしはその子が指差す方に顔を向け、そして自分の血の気が引いていくのが分かった。怯えるのはあたしの番だった。
 最も誘われたくない、でも絶対に断れない人が。
 あの鋭い目が――あたしに焦点を合わせている。


 転入生というのは、本人が意図しなくても有名になりやすい。だから彼女はあたしを容易に見つけられる。でも、あたしは彼女の名前や学年を知らない。最初から隠れたり逃げたりするなんて無理なのだ。分が悪すぎる。
「ちょっと」
 振り返った鋭い眼差しが、あたしを刺した。小走りになって彼女に追いつく。
 彼女は下校を一緒にと誘ってきたのだった。何をするつもりかは分からないけれど。
「昨日貸した服だけど」
 校門を出た辺りで彼女が口を開いた。
 あたしの鞄には彼女が置いていった下着以外の着替えが入っている。傘も手に持っている。あたしが今日、怯えながらも登校したのは、これを返すためだった。目的をすっかり忘れて、放課になったらすぐに帰ろうするなんて本末転倒だったのだ。
 洗濯済みだけれど、返したら彼女は捨ててしまうだろう。あたしが身に着けた衣類は、みんなにとっては汚れものだから。ましてや下着なんて、持ってきたところで意味はない。
「あ、あの……。洗って持ってきたの。ありがとうございました」
 あたしは鞄からビニール袋を出して見せた。
 彼女はきっと『いらない』と言うだろう。そうしたら、あたしがこのまま持ち帰ればいい。前みたいに目の前で捨てられるよりはマシだ。
「下着は?」
 その言葉を理解するのに数秒かかって、あたしは頭を振った。彼女はそれで分かったらしく、あたしの手からビニール袋を引き抜いて手提げにしてしまった。ついでに傘も奪われる。家で捨てるつもりらしい。あたしが持って帰ってそのまま使うことを危惧している?
 目の前で捨てられる方がまだマシだ。
「あの下着、新品だったのよね。だから――」
 彼女は立ち止まって、射るような目であたしを見た。
「下着代は払って。二千円」
 分かった。
 よく分かった。
 昨日、彼女が着替えて帰れと言ったのは、やっぱり優しさなんかじゃなかった。あたしの体を気遣っているわけじゃなかった。
 彼女が何を考えているのか分からなかったのは、今までの人たちとタイプが違ったからだ。
「ああ、それと……」
 彼女は鋭い目のままで、
「誰にも言わないって約束するわ」
 あたしを強請ってきた。
 体ががたがた震えだした。戦慄だ。
 どう考えても、彼女は今までの人たちよりずっとたちが悪い。わざわざ衣類を置いていって、それをあたしが着るように仕向けて。もし濡れた制服のまま帰ろうとしても、靴に傘が乗せられていれば着替えざるを得ない。服が濡れたまま傘を差しても仕方がないから。そこまでされては、あたしは着替えなければならないから。
 あの下着が本当に新品だったかどうかなんてことは問題じゃない。ブラは着けなかったなんてことも問題じゃない。
 あたしが彼女の下着を使ったという事実が重要なのだ。
 代金を払わなければ体の秘密をバラすとは直接的に言われていないし、それはこの件に関係ない。だって誰がどう見てもこれは――
 あたしが彼女から下着を買い取っただけ。
 彼女は気兼ねなく代金を要求できる。彼女は間違ってはいないのだから。
 よく分かった。彼女はあたしを金づるにするつもりなのだ。
 最初にお金を渡させるのが正当な方法、しかも払える金額。そして一度払ってしまえば、たぶんそれ以降は断れなくなる。断れなくするために、あたしを着替えさせた。それを昨日の短い時間で考え付くなんて……。
 質が悪いにもほどがある。
 お金を渡すのを渋ったら、今までの人たちと同じように傷付けるだろうし、絞れるだけ絞って用済みになったら秘密を曝露するだろう。そうに決まっている。
 あたしは震える体を懸命に動かし、財布から千円札二枚を取り出して彼女に渡した。
「ありがと。これで新しい下着を買うわ」
 彼女はあたしの全てを支配しても、ただ鋭い目つき。眉一つ動かさず、微笑みさえしない。まるで感情が伝わってこない。
 そして怖ろしいことに、今まで一度も果たされなかった『誰にも言わない』という約束は、今回が最も信憑性の高いものになってしまったのだ。


 少し前から、この地域も梅雨入りしたらしい。
 一緒にお弁当を食べてくれる子たちとはすぐに友達になったけれど、この子たちはあたしの秘密を知らない。知らないから仲良くしてくれる。自分がうまく笑えているか気にしてしまい、自己嫌悪に陥ることがしばしばあった。それは、毎度のことだけれど。
 彼女が約束を守っている以上、あたしは普通に学校生活を送ることができている。少なくとも、彼女の目の届く範囲以外では。
 今日最後の授業である体育が終わり、渡り廊下を通って校舎へ戻る時、あたしは視線を感じて足を止めた。足が前に出なかった。経験によって過敏になっている神経は、その視線の種類を知っている。あたしはぎこちなく校舎を見上げた。
 彼女が、人の行き交う二階の廊下からあたしを見下ろしていた。
 その視線は雨を突き抜け、頭のてっぺんからつま先まで、品定めをするように。
 あたしはうつむき、視線に耐えるために少し大きめのジャージを握り締めた。蒸し暑くても決して脱がないけれど、ジャージも体操着も下着も、全て剥ぎ取られていくように感じた。
 下着代を要求してきた日以降、彼女はあたしに接触してはこなかった。格好の金づるであるはずなのに。接触はしてこなかったけれど、ああやって遠巻きにあたしを見ていることは多々あった。ただ見ている。鋭い目で。あたしが視界から消えそうになっても、決して頭を動かさない。一挙手一投足を嫌うかのように表情すら変えない。動かすのは眼球のみ。
 だからといって安心できるわけでもないし、むしろ彼女の考えていることが分からなくて怖かった。見られているあたしは、時限爆弾を持たされているような気分。
「どうしたの? もしかして、睨まれてるから固まってる?」
 友達は、彼女のことを目ざとく見つけたらしい。あたしはなんとか頭を振って否定した。
「あの子、あたし怖くて。目つき悪いし、いっつもみんなのこと睨んでるし、笑わないし……この前、ホントに何もなかったの? 大丈夫?」
 彼女は先日、この子を使ってあたしを呼んだ。彼女と一緒に帰ったことを知っているから、その時に何かあったんじゃないかと心配してくれている。
「大丈夫。ちょっと話を、しただけだよ」
「……ホントに大丈夫?」
 繰り返す友達。あたしの体が彼女の視線ではりつけにされていることが、何かあった証拠だとばかりに。眉はハの字で、懐疑と心配が混ざった表情だった。彼女と比べたら、どんなに分かりやすいことか。
 彼女に言われてあたしを呼びに来た時、友達は怯えていた。自身も言うとおり、この子は彼女が怖いのだ。お昼を一緒にする子たちは彼女と一度も話したことがないらしいけれど、彼女を恐怖の対象にしていた。当然、あたしとは怖がる理由が異なるのだけれど。
 心配そうに視線を向けてくる友達を見て思う。果たしてその心配は、純粋に友達に対してのものなのか。それとも、明日は我が身と怯えているものなのか。時々、人を信じ切れないもう一人のあたしが勝手に考え始める。
「早く行こ?」
 大丈夫だと思われてはいないみたいだけれど、友達はそれ以上追及しないでくれた。あたしは息を止めて足を踏み出す。体中に突き刺さっている視線は簡単には抜けそうにない。それでも死角まで行くと、視線はぷつりと消えた。もう大丈夫。これ以上追ってくることはない。
 でも――
 彼女はあたしの目の前に現れた。トイレで着替えを済ませ、あとは教室に戻って帰宅するだけという時に。
 今日は、見ているだけじゃなかったのか。
「一緒に帰らない?」
 断れるはずがなかった。


 それぞれ傘を差し、並んで歩く。
 あれから、天気予報で雨の心配がなくても、必ず鞄に折りたたみ傘を入れておくことにしている。あの日もこうしていれば、彼女との関係も違ったかもしれない。帰り道を教えてもらって、友達になれたかもしれない。
 そう思うのは希望的観測だろうか。
「更衣室がないから、うちに来たの? それとも、プールがないから?」
 的を射た発言は、やっぱり校門を出てからだった。
「……どっちも」
 更衣室とプールは、あたしの体の秘密を知られやすい場所。初めての転校のきっかけは、着替え中に見られてしまい、その直後からいじめの対象になったから。今まで修学旅行の類は参加したことがない。
 この学校は小さくて、更衣室もプールの授業も存在しない。過去の教訓を生かせば、転入先の条件はほぼ満たされる。
 それでいて、他人の家で体を見られてしまうのだから世話がない。
「まあ、そうよね。こんなに蒸し暑いのに上下ジャージだし」
 納得したのも束の間。
 彼女は次の質問をぶつけてきた。
「あなたが好きになるのは男と女、どっちなの? それとも両方?」
 まさか。
 あたし自身の性別を聞く前に、好きになる性別を聞いてくるなんて。彼女は何を考えているのだろう? もしかして、あたしが好きになる相手の性別を聞いて、あたし自身の性別を確定しようとしている? どうして? だって、今までの人たちは、あたしの性別をわざと決めないで傷付けてきたのに。
 でもあたしの場合、好きになる相手で性別を確定されたら、それは間違いだ。
 だってあたしは――
「お、女の子しか好きになったことない……」
 言いたくなくても、彼女の目にはあたしの口を開かせる力があった。
 彼女は、あたしを男の子だと認識しただろうか。女の子を好きなのは男の子だから。みんなそう思うから。
「でも……」
 たとえいじめられるとしても、一つだけ、彼女に知っていてほしいことがある。それだけは中途半端なんかじゃなく、あたしの確かなものだから。
「あたしは女の子なんだよ。体は違うけど、自分を女の子だと思ってる」
 これを聞いた今までの人たちは、余計なものが付いているから、女の子を好きになるのだと言ってきた。でも、それは違う。あたしは自分が女の子だと認識しているし、その上で女の子が好きだということも自覚している。小さい頃からそうだった。
 好きになる相手は体のせいじゃないけれど、完璧な女の子に憧れを抱いていたというのも否定できない。
 でも同時に、好きな子があたしを男の子として求めるなら、それでもいいと思っていた。ちゃんと結婚もできるし、子供だってできる。好きな子の気持ちに応えられるのなら、あたしは女の子の体を捨ててもいいと思っていた。自分の体は便利だとさえ。
 でも――小学校の保健の授業で、その思いは打ち砕かれた。
 あたしは、自分が男の精を持っていないと知った。
 検査をしたとかじゃなく、見た目からして明らかだったのだ。女の子には不要なものが付いていても、男の子に必要なものは欠けている。
 自分の体の中途半端さに絶望した。
「恋人とか、いないの?」
 なんて野暮な質問だろう。いたら転校なんかしていない。
「今までに何人か……。でも、体のことを打ち明けると拒絶された。友達には無理でも、恋人なら――恋人だから理解してくれると思ったのに」
 あの時の恋人たちといったら、これ以上ないくらい激しい拒絶の仕方だった。
 そしてほとんどの女の子は、あたしが告白した時点で拒絶した。体のことを言わなくても、結局は「気持ち悪い」と言われる。
 男の子だったら受け入れてくれたかもしれない。あたしの秘密を知らない子に拒絶される度、そう思わずにはいられなかった。
 だから諦めきれなかった。あたしは普通の体と違うのだから、何か違う機能が働いていてもいいじゃないか。見えないだけで、本当は男の精を持っているんじゃないか。
 結局のところ、あたしは誰かを孕ませることはできない。ただの興味本位で何度も近付いてきた人のおかげで、あたしはそのことをいやというほど思い知らされた。その人は気持ちまで受け入れてくれることはなくて、あたしは余計に虚しくなるだけだった。
 それでも転校する度、あたしは懲りずに誰かを好きになる。この人ならあたしを受け入れてくれるだろうと、毎回思うんじゃなく――願うのだ。
 そして女だからという理由で断られる度、自分の体と性を理解しようとしないわがままでバカな子供のままでいようとする。保健の授業を受ける前のあたしは、ある意味で理想型だから。
「ふうん」
 彼女は鋭い目であたしを一瞥して、それ以降は何も言わなかった。
 結局、お金の要求もしてこなかった。
 今までの人たちとタイプが違うとはいっても、ここまで違うと過去の経験と照らし合わせられなくて、次に何をされるのか予想できない。あたしにとってそれは、傷跡が疼くほどの恐怖だった。
 右胸と内もものは特に。
2009.7.31
2へ
前の話へ次の話へ
案内   小説   イラスト   リンク   日記   トップ