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 はっきり言って。
 あたしは高いところが苦手だ。小さい頃に公園の滑り台から落ちたことがあって、それから極度の高所恐怖症。ベッドくらいの段差も遠慮したい感じなので寝る時は布団。脚立を活用できるほどの高さまで足をかけられないから、人が使っている時倒れないように押さえることくらいしかできない。本当は脚立を見るだけでも吐き気がするんだけど。
 それなのに×××なんかに乗ることになるなんて……。


 それもこれも、あたしが彼女のことを好きだからいけないんだ!


Wait Until High



「高所恐怖症ねぇ……」
 昼休み、向かいの席でお弁当を食べる彼女が何気ない感じで言った。たぶんあたしのことを言ってるんだろう。この前の文化祭の準備で脚立を使えない理由が彼女にバレてしまったから。いや、別に隠してたわけじゃないんだけど。
 あたしがニンジンを口に運ぶ箸を止めて見ると、彼女は楕円形のお弁当箱に目を落としてハンバーグを黙々と食べていた。油のせいで艶めく唇に目を奪われそうになって、あたしは急いでニンジンを口に放り込んだ。
 きっと気まぐれなつぶやきだったんだ。彼女はごくたまに誰にともなく言葉を発することがある。聞き流しておこう。
 あたしがほうれん草のおひたしに箸を伸ばした時――
「ねえ、克服したいと思わない?」
 彼女が大きな目をこっちに向けてきて、あたしの心臓は飛び上がる。
 さっきのは気まぐれなつぶやきじゃなかったらしい。
「こ、克服できるものなら、克服したいけど……」
 少し高いだけでもダメだから、生活に支障が出る時だってある。高所恐怖症が治るなら、それはありがたい。
「でも、どうやって?」
 聞くと彼女は、にたりと笑った。嫌な口角の上がり方。でもグロスを引いたような唇は色っぽいままだ。
「うちの町の名物のなり損ないに手伝ってもらえばいいのよ。全然混んでないみたいだし」
 言われてすぐに、彼女が何を使って高所恐怖症を克服させようとしているのか分かってしまった。
「あの、それはちょっと……どうかなー?」
 苦々しげに言葉を返して、拒否の意をやんわりと伝える。ちょっと想像しただけでも鳥肌が。
「もう。克服したいんじゃないの?」
「したいけど、そういう方法なら嫌だよ」
 彼女が呆れたような目で見てくる。ああ、それにしても長い睫毛。
 あたしは気持ちを落ち着かせるために、とりあえずほうれん草を口にした。
「どうやって地面に足を着けたまま高所恐怖症を克服できるっていうのよ? 本当に克服したいなら、観覧車に乗りなさいって言ってるの」
「だからそこまでして克服したいわけじゃないってゆーか、何でズバリな名詞を出しちゃうか、な……うっ」
 ああ、吐き気が。ニンジンとほうれん草のおひたしが。やめろ! 戻ってくるな!
「観覧車って聞くだけでそんなんじゃ、飛行機にだって乗れないわよ」
「やーめーてーよー。空飛ぶ鉄の塊の名前なんて聞きたくないっ! 次そういうのの名前出したら吐くからね!」
「脚立」
「あ、脚立は大丈夫」
「文化祭準備の時、私の下であんなに怖がってたのに?」
「それくらいなら実際にものを見なければ平気。想像するとダメだけど……」
 彼女が脚立を使っている時だけ下で押さえていた様子を必死で思い出さないようにし、あたしはなんとか吐き気を抑える。
 まったく。わざわざ名前を言うなんて、彼女はいじわるだ。
「基準がよく分からないわね」
 彼女はため息をつくと、残りのハンバーグをフォークで二つに割った。
 ×××ができたのは一ヶ月前のことだった。町の名物にしようとかそういう計画のものだったらしいけど、あんまり繁盛していないらしいことは噂で知っていた。高所恐怖症のあたしからすれば、繁盛していたとしても関係ない話なんだけど。でも――
 彼女は克服のためにあたしに×××に乗れと言う。嫌がらせとしか思えない。あたしに死ねと?
「なにも一人で乗れって言ってるわけじゃないわ」
「へ?」
 彼女はせっかく二つに割ったハンバーグを、フォークで串刺しにした。
「だから、私も一緒に乗るってこと。友達として、ちゃんと付き添うわよ」
 ぶっきらぼうに言って残りのハンバーグを食べた。飲み込んで、舌なめずりをして、少しうつむく彼女。
「それとも、私と乗るのは嫌?」
 う、上目遣いなんてズルイ……!
「どうなのよ?」
 あれ? ただ睨まれてるだけ?
「い、嫌じゃないけど――」
「そう、良かった。じゃあ次の土曜日に行くわよ」
 人の話を遮っておいて、彼女は満面の笑みを浮かべた。乗り物に問題があるって言いたかったのに。もしこれで嫌だと渋ったら……『彼女恐怖症』とかになってしまうかもしれない。高所恐怖症よりひどい症状が出そうな気がする。
 何より彼女に嫌われたくない。やっぱり、克服するために乗らないとならないんだ。まあ仕方ないよ。強引なところも、彼女を好きになった理由の一つだから。
 一緒に乗ってくれるっていうんだから心強い。×××の狭い空間、言わば密室に彼女と二人きり――
 あたしに死ねと?


「いやぁぁぁああ! ゆ、ゆれ、揺れてるっ! ゆれてるううわああぁぁあ」
「当たり前でしょ。動いてるんだから」
「お、落ちるって!」
「まだ上がったばっかりよ。今落ちたって大したことないわ」
「やっぱり落ちるの!? 降りたいぃぃぃぃいいぃい! あたし決めた。降りますっ! 今すぐに!」
「目瞑ったまま飛び降りるの? すごいわね」
「恐くて目開けられないんだよ! ひぃぃいいいまたゆれたぁぁああ」
「十分くらいしたら普通に降りられるわよ。これ、高さ五十メートルなんだって」
「高さァ? んなもん知らん! 興味ない! それより、どれくらいの高さになったら降りられるの!?」
「かなり性格変わるわね。あ、違うわ。混乱してるのね。かわいそうに」
「誰のせいだと思ってんだよおおぉぉおぉおおお」
「性格が変わっただけ? 凄まじいわ」
「てめぇこのやろふざけんじゃねえぇえええ!」
「いくら混乱してるからって……」
「痛っ!」
「言葉遣いには気を付けなさい?」
「え? 何? ほっぺ痛いよ?」
「正気を取り戻したかしら? 時間を無駄にしないで。ほら、目を開ける」
「は、はい……」
 恐る恐る目を開くと、目の前には彼女の顔があった。×××に乗っていることもあって、一層心臓の動きが激しくなる。よく見れば、彼女の腕はあたしの顔に伸びてきているようだった。あ、頬が痛いのは叩かれたからなのか。
「ってゆーか、何で座ってないの?」
 座席に腰掛けているあたしの目の前に彼女の顔があるんだから、彼女は座っていないということだ。
「どうやったら座ったまま、暴れるあんたを押さえ付けていられるのかしら?」
 彼女の大きな目が細くなって、あたしを冷たく見下ろしてきた。暑い季節はとっくに過ぎたのに、何でこんなに汗が出てくるんだろう……。
「ご、ごめんなさい。お世話かけました」
 幸い透けた床じゃなかったから頭を下げることができた。彼女はあたしの頬から手を引いて座った。隣じゃなく正面に。その方がいい。隣に座られて部屋が傾いたりでもしたら大変だ。
 窓の外にビルが見えて、高さがリアルに捉えられて憂鬱な気分になる。景色なんて見ていられないから正面の彼女の顔をじっと見る。大胆にも窓に頭を預けて(お願いだから割れないで!)、眼下を見下ろしていた。横顔が夕日に照らされて、睫毛の影ができている。少し開いた唇から漏れる息でガラスが曇ったのを見て、心臓が恐怖とは違う鼓動を打ち始めた。
 結局、どこを見ていてもダメみたい。
「震えてるわね」
 彼女はあたしのことを一瞥した。言われて初めて自分の体が凍えるように震えていると分かった。手すりらしき鉄の棒に掴まる両手の平に脂汗が広がっている。別に知りたくなかったよ。余計怖くなるから。
「前にね」
 彼女が静かに口を開いた。
「テレビで見たのよ。高所恐怖症を克服する方法」
 目線は外のまま。
 そういえばあたしは、高所恐怖症を克服するためにこんなものに乗ったんだった。彼女と二人だったら大丈夫だと思って。いや、二人きりということに気が行って、高いところにいることなんか忘れてしまうだろうって妄信して。
 どのみち予想は外れたわけだけど。
「ひぃっ」
 宙吊りの部屋が揺れて、あたしはまた素っ頓狂な声を出してしまった。息が荒くなる。苦しい。
「こ、これに乗るのが克服方法? のののの乗ってるだけ?」
 彼女を信用していないわけじゃないけど、もうすでに限界なくらい乗っているのが辛い。でもよく考えたら、こんなことを言って反抗的だって怒られるかもしれない。反芻してから聞くんだった……。
「ううん。乗ってるだけじゃダメなのよ」
 あれ? 怒らない。
「高い場所で楽しいこととかいいことを体験するの。そうすれば、脳に染み付いてる高所への恐怖感が、『高い場所にはいいことがある』みたいに書き換えられるんだって言ってたわ」
 窓の外に目を向けたままつぶやくから、彼女お得意の独り言のように聞こえた。
「例えばね、夜景を見下ろせる高層ビルのレストランでおいしい食事をするとか」
 おいしい食事。なるほど。そういうところでだったら、もう少し気が楽だったかもしれないのに。彼女は何でこんな動く個室を選んだんだろう?
 ここでできる楽しいことなんて、あたしには思い付かない。というか、何をやっても楽しめない気がする。
「例えば、高級ホテルのスウィートに泊まるとか」
 さすがに、これにしてほしかったとは言えないけど。でももしそれに誘われてたら……スウィートってダブルベッドだよね。彼女と同じベッドで寝るってこと? だ、ダメ。そんなことできない。だってあたしベッドと床の段差でさえ足がすくむのに!
「例えば、観覧車の中で好きな人に告白されるとか」
 だから何でわざわざ乗り物の名詞を言ってしまうのか! 吐き気と眩暈が同時に襲ってきて、どっちに対応すればいいのか分からない。いや、まずは吐き気か。
 口に手を持っていってゆっくり深呼吸をする。手はやっぱり震えていた。
 とりあえず吐き気を抑えてふと顔を上げると、彼女が窓ガラスから頭を離したところだった。あたしをしっかり見ているけど、さっきまでのような冷たい眼差しではない。
 彼女は舌なめずりをして、口を開く。
「私、あんたのことが好きよ」
 ……………………??
 突然どうしたのか。あたしが固まっていると、彼女は呆れたようににこりと笑った。かわいい笑い方だ。濡れた唇が、やっぱり色っぽい。
「分からない? あんた今、私に告白されてるの」
「え? なな何で?」
「高所恐怖症を克服するには?」
 彼女はそこで話を止めた。あたしに続きを言えということらしい。
「たた、高いところで楽しいことを体験する、だっけ」
「あんたの場合、体験してるのは『いいこと』だけどね」
 ちょ、ちょっと待って。一旦整理しよう。
 高所恐怖症を克服するためには、高いところで楽しいことやいいことを体験する。そうすれば脳が恐怖感を書き換えるという説明だった。そして彼女はあたしに告白をして、それを『いいこと』の体験だと言う。ということは――
「あたしが好きなの知ってたの!? バレてたってこと!?」
「私だけにね」
 彼女はフフッと笑う。一番バレちゃいけない人にだけバレてるって……。
 でも、これは本当に『いいこと』なんだろうか。あたしの高所恐怖症を治すためだけに告白してきたのかもしれない。彼女のことが好きだとバレているからといって、彼女もあたしのことを好きだとは限らないんだから。
「そんな顔しないでよ。私が克服のためだけに好きって言ったみたいじゃない」
 心、読まれた!?
「進展がないもんだから、私が折れたのよ」
 折れたって、そんな言い方……。いや、ということは、つまり?
 彼女は腰を浮かし、あたしの目の前まで歩いてくる。
「た、立ったら危ないよ!」
「危なくない」
 そのまま足元に両膝を突いて、あたしを見上げてくる。あたしは生唾を飲んだ。
「好きです」
 息が苦しいのは、鼓動が速くなっているのは、この空間が一番高いところに近付いているから?
「見るだけでもダメなくせに、文化祭の準備で私が脚立を使うと必ず倒れないように押さえてくれて、すごくうれしかったわ。もっと好きになった」
 彼女は震えるあたしの手を包み込んだ。震えが消えた。
「大好きよ」
 柔らかい声だった。
 突然の告白とか、ここが高いところだとか、手が触れ合っているのとか、不意に部屋が揺れたりとか、吐き気はないけど色々ありすぎて目が回りそうで、でもなんだか嫌な気分じゃなくて、むしろうれしくて。
「あの、あたしも……大好き」
 あたしの言葉を聞いた彼女はとても輝いて見えて、それは世界を紅く染める夕日よりもまばゆくて、今までの彼女の中で間違いなく最高の笑顔だった。
「うぅ……」
 ダメだ。涙が出てきた。
「ちょっと、泣くことないでしょ?」
 彼女が涙を指で拭ってくれるけど、涙は止まらない。
「緊張の糸が切れたのね」
 今度は優しく頭をなでてくれた。あたしは頭を振る。
「違うよ。うれしいだけだよ……。だって高い場所まだ怖いから緊張の糸切れたわけじゃないしぃぃぃ」
「最後のはいらなくない? 私せっかく感動してたのに」
 溢れる涙を少し乱暴に拭われた。
「ほ、本当にこれで大丈夫なの? あたし克服できてる気がしないんだけど……」
「何言ってるの。一回こっきりで治せるわけがないでしょ? 何回も繰り返しやらないといけないのよ。要は慣れなんだから」
「そ、そんなぁ」
 ひどい。今日で高所恐怖症を克服できるのかと思っていたのに。
「だから、来週も一緒に来よう?」
 またここにか。
 彼女が手を止めて、あたしの顔を覗き込んでくる。その目つきは反則だ。
「次はキスしてあげるから」
 とんだ甘い誘惑。でも待っているのは荒療治。どっちに心臓が激しく反応したのかは分からなかったけど、断れそうにないのは明らかだった。だって彼女は、にたりと笑っているんだから。
「もう頂上は過ぎたみたいね。安心して。あとは下がるだけよ」
「まだたっ、高いことには変わりないけど」
「外、見ないの?」
「見ないよ」
「じゃあ私のことだけ見てなさい?」
「言われなくても見ますよっ」
 彼女は吹き出すように笑って、正面の席に戻った。窓枠に肘を突いて人差し指と中指くらいで頭を支える姿が、何でだかとてつもなく色気を発していた。その色気に誘われている気がした。もしキスをしたら、することがなくなったとかいう理由で×××に乗るのを免除してくれるだろうか――されるわけがない。
 あたしはまだ、彼女のところまで行くなんてことできないんだから。
「本当はずっと前から両想いだって知ってたの。いつか言ってくるかと思ってたんだけど、全然でしょ?」
「あたしそんな勇気あるように見える?」
「見えないわね」
 それなら、いつか言ってくるとか思うのはおかしい気がするけど。
「文化祭の準備の時に高所恐怖症だって知って、観覧車も完成したし、ちょうどいいと思って誘ったのよ。そろそろ告白しようと思ってたし、何より高所恐怖症を克服してもらいたかったから」
「どうしてそんなにまで? ってゆーかまた名前出した、ね……」
 また吐き気が。くらくらする。
「私ね、ベッドで寝てるのよ」
 彼女の視線はあたしから窓の外に移った。あたしは一瞬釣られそうになって、急いで彼女の横顔を凝視する。
「そ、それが何?」
 再び彼女の目があたしに戻ってきて、舌なめずりすると微笑んだ。
 ――にたり、と。
「うちに遊びに来て、『そういう雰囲気』になってもベッドに押し倒したら高所恐怖症のせいで断念なんて、嫌だってこと」
「それなら布団だっていいじゃん!」
 とんだ計画的犯行を聞かされて、あたしは変なことを口走ってしまった。
「布団は寝る時にしか敷かないでしょ。寝る時に『そういう雰囲気』になるとは限らないのよ?」
「なら床で! 床でいい!」
「カーペットが汚れたら嫌だし」
「あーもう! 告白された時のあたしの感動を返せっ!」
 そう叫びながらも、情けないことにあたしは鉄の棒にしがみついたまま立ち上がれなくて、頬杖を突きながらにたりと笑う彼女に、やっぱり見とれていることしかできなかった。
2009.3.5
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あとがき
 かく言う私も広義で高所恐怖症です。滑り台から落ちたってやつは私の実体験。でも落ちるのが前提のもの(ジェットコースターなど)に乗るのは平気。落ちてはいけないものに乗るのがダメです。一番嫌いなのは、向こうが見える隙間がある階段。
 克服の仕方は私が昔テレビで見たやつです。記憶違いの可能性もありますので、参考にはしない方が賢明かと。
 ちなみに題名は映画の『Wait Until Dark(暗くなるまで待って)』が元。ということで、題名を訳すと『高くなるまで待って』となります。
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