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恭子の一日



「おーい」
 背中を突っつかれ、あたしは我に返る。
「何?」
 後ろの席のひよちゃんに問いかけると、呆れた顔であたしのことを見るのだ。
「何、じゃないでしょ? 授業終わったから」
「あぁ。教えてくれたんだ。ありがと」
 笑顔でお礼を言ってもひよちゃんの呆れ顔は変わらなかった。まぁその理由は大体予想がつくんだけど。机の上の筆記用具を片付けながら、ひよちゃんはため息と共に言葉を吐き出す。
「いくら窓際だからって、一番前の席でよく授業放棄できるよね」
 やっぱりその理由だったか。ひよちゃんの立場だったら、あたしも同じこと言ってると思う。
 元々あたしは真面目で、高校に入るまで授業中に居眠りをしたこともないくらいだった。それが今では、一通りノートを取ったら窓の外の空を眺める毎日。先生の話も聞かず、ただぼーっとしている……とみんなには思われている。ここだけの話、あたしはただ単にぼーっとしているわけじゃない。ちゃんとみなと先輩のことを考えているのだ!
「ここって日当たりがいいから、ついついまどろんじゃうんだよ」
 本当のことは言えないので無難な言い訳をしておく。眠っていたわけではないが、そう言った方があまり追及されずに済むかと。後ろからだったらあたしが寝てるように見えるだろうし。
「まぁね。分かるけどさ。ほどほどにしないと、テストで泣くはめになるぞー」
「善処します」
 あたしは前に向き直り、素早く机の上に出ている物を鞄に放り込む。チャックを閉めて、はい完了。
「じゃあ、あたし行くね」
 鞄を肩に掛けて勢い良く立ち上がると、ひよちゃんは少しだけ目を丸くした。
「あ、そう。じゃあね、また明日」
 あたしは営業スマイルで手を振って教室を出る。そしたら、旧校舎の三階空き教室に向かって駆け足一直線。脇目も振らずにただ進むべし。周りの目なんて気にするな。もう自分を偽る時間は終わったんだから。
 あたしは無表情だけど、無感情じゃない。だから、湊先輩がそこにいると考えるだけですごくドキドキしてくる。学校にいる時は毎日会っているのに、今日も会えると思うと心が弾んでしまう。


 あたしの一日は放課後から始まるのだ!


 新校舎と旧校舎は二階の渡り廊下でつながっている。一年生のあたしは、新校舎の四階から二階に下りて渡り廊下を通る。そして今度は旧校舎の二階から三階へ上るわけだが、これが疲れるのなんの。それでも駆け足一直線なのは、たまには湊先輩より先に到着してお迎えしたいから。さて、三階に着いたら空き教室は向かって右端だ。
 乱れた息を整え、人がいないか廊下を見渡す。ここら辺はお化け目撃情報があるので、あまり人が寄りつかない。あたしには好都合だ。今度は空き教室の扉の窓から中を覗いてみる。うーん……真っ暗。そりゃ電気もつかなくてカーテンが暗幕だから見えないのも当然。あたしがいる廊下の方が教室よりも明るいから余計に。引き戸に手をかけると、がらりと音をたててスライドした。開くということは鍵がかかっていないということで、それはつまり、ここの主が中にいるということだ。ノックした方が良かったかも。
「今日も走ってきたんだね」
 暗がりから声が聞こえる。少し低めだが女の子と分かる声。全くこの人は。あたしがどんなに速く走ってきても必ず先に来ていて。おかげで今日もお迎えできなかったじゃないですか。
「……早いですね」
 あたしは暗闇に足を踏み入れて後ろ手で扉を――鍵を閉める。それは、隔絶された空間を作るということ。これから少しの間、ここは二人だけの場所なのだ。あたしにはもう、外の音は耳に入らない。


 さっきまでここで授業を受けていたかのように、湊先輩は席に座っていた。机に頬杖を突いて。席といっても、窓際に積み上げられた机と椅子の一組を使っているだけ。本当は教室中が埃まみれのはずなのだが、湊先輩が定期的に掃除しているのでとてもきれいだ。あたしはそれを知っているから、まだ暗さに慣れていない目でも安心して窓際の隅っこにある椅子に腰掛けられるのだ。
 湊先輩の席は、普通の教室だと教卓の真ん前。もっとも、ここには教卓も教壇もないんだけど。あたしが陣取っているのは、湊先輩を左斜め前から眺められる位置。そろそろ目が慣れてきたようなので、毎日恒例の先輩観察を始めることにする。
 髪は相変わらずボサボサ。髪の毛の一本一本がアピールしすぎである。初めて会った時からアンダーリムメガネの右レンズにヒビが入っているが、修理に出す予定はないらしい。左のほっぺにある膨らみは、飴玉を舐めている証拠。湊先輩は飴が大好きなのだ。メガネの奥の瞳は微笑みながら、何も書かれていない黒板に向いている。たまにはこっちを見てくれてもいいと思いますがどうでしょう?
 ブレザーのボタンをはめておらず、下にはクリーム色のベストを着用。ベストのVネックには必需品であるヘアピンが二本、クロスさせて引っ掛けてある。スカートからすらりと伸びた長い足は驚くほど細くて、少し肉を付けた方がいいくらい。これだから学校の人に『お化け』なんて言われるのだ。大体、そういう風に思うのなら呼び名は『幽霊』なんじゃないか? だって、お化けは奇怪なものとかで人間じゃない。その点、幽霊は元は人間だから、人間の姿の湊先輩を『お化け』と呼ぶのはいかがなものか……じゃなかった。
 つまりだ。観察結果は『不気味で何より』に落ち着く。湊先輩の感情と行動を折れ線グラフで表せば、それはもう見事なまでにフラットなわけで、毎日こういう結果になってしまうのだ。……そろそろこっち見てくれてもいいと思うんですが先輩?


 あたしはこの空き教室に来たら時間を気にしないことにしている。湊先輩が帰るまであとどれくらいかなんて、そんな野暮は考えたくないから。故にここに来てからどれくらいの時間が経ったのかは分からない。短い時間ではないことは確かだけど、微動だにせず黒板を見つめている先輩を見ると、フリーズしてしまったんじゃないかと思うことがしばしば。
 いくら恋人といっても、あたしもずっと先輩のことを見ているわけじゃない。固まった先輩を眺めていてもね。美術品じゃないんだし。あたしは湊先輩と違って、視点を一つに集中できないタイプだから、今はとりあえず天井を見ていたりする。新しい蛍光灯に替えれば電気つくんだろうなぁとか考えながら。
恭子きょうこ。あのさ……」
 不意に名前を呼ばれて、心臓がほんの少しだけ活発になった。そうですよね。フリーズなんてするはずありませんよね。
「何ですか?」
 優しい瞳がこっちに向けられていることを知ったのは、あたしと先輩の視線が一本に重なったからで。いつか『やっとあたしを見る気になりましたか』とか、生意気なこと言ってみようかなんて余計な考えが浮かんできてしまったり。
 先輩がいきなり話し始める時の話題は大体決まっていて、この雰囲気からすると、あたしの頭を悩ませるお話が繰り出されそうだ。余計な考えも浮かばないほどの難問が。
「……こんな感じのって名前何だっけ?」
 やっぱり。
 湊先輩が空中に出した手は、サッカーボールより少し小さめの球体を包むような動きをしている。
 あたしがいつも頭を抱えざるを得ない難問。それは、先輩がド忘れしてしまった何かの名前を教えてあげること。いきなり話し始める時は大体が思い出し話で、クイズ感覚では楽しめないというオプション付き。時には思い出話をしてほしい。
 湊先輩は名詞を覚えるのが苦手なのではなく、覚えた名詞を思い出すのが苦手。引き出しはたくさんあるのに、それを開ける鍵をよくなくしてしまうのだ。この人はどうも、自分のことをちゃんと把握できていないらしい。持て余している長い手足も、髪型も然り。
「サッカーボール……ですか?」
 とりあえず見たままを適当に言ってみる。
「違う。そんな奇抜な配色じゃなかった」
 先輩にはどうやらサッカーボールは奇抜な配色らしい。普通白と黒なのに。まぁこれでおっきなおにぎりって答えは消えたけど。
「それはどんな色なんですか?」
「白とか赤とか。ピンクもあったかも」湊先輩は額に手を当てる。
「その三色の組み合わせで思い付くものはワインくらいしか」
 首を横に振られた。いい線行ったと思ったんだけど。あたしが顎に手を当てて考えていると、先輩は人差し指を立てて「茶色もあった」と付け加えてくれた。
 …………それはどうも。余計に分からなくなりましたけど。ダメだ。あまりにもヒントが少なすぎる。
「えーと。形はどうです?」
「丸みを帯びてる」
 先輩それ、あんまり参考になりません。いいヒント出した! みたいな顔されても……。
「特徴なんかはどうでしょう?」
「……二股」
「それって特徴なんですか?」
 こくりとうなずいてくれるが、あたしは混乱するばかり。今さらだけど、先輩はヒントの出し方が至極下手だ。しかも時々全く違うヒントが入ってたりするから厄介。放課後は大体こういう会話をしているといっても、あたしは連想ゲームとかはあんまり得意じゃない。つまり、思い出し話の時の湊先輩とあたしは最悪の組み合わせってことだ。
 いつもならあたしでも分かるんだけど……しょうがない。もう最後の手段を使うしかないか。
「すみません。分からないので絵に描いてもらえますか?」
「いいよ」
 先輩がにっこりと微笑んで快諾してくれたので、あたしは自分の鞄からノートとシャーペンを取り出し、先輩の机に持って行く。先輩は長めの前髪を左手で上げると、何の迷いもなくササッとペンを走らせる……が。線が増えるにつれて形になっていくはずなのに、一向にその気配がない。輪郭らしきものはふにゃふにゃで貧弱感が漂う。
「できた。分かるでしょ?」
 完成品をパッと見てみれば。いや、凝視してみても。


「…………………………カオス」


 としか言いようがなかった。輪郭は確かに丸っぽくて、上が小さく二股になっている。その中の上の方に大きな黒丸が二つ、下の方に横長の長方形が二つ輪郭から飛び出て描かれている。周りにはクラッカーが破裂したような三角形が飛んでいて、これは必要なのか疑わしい。
「カオスじゃないよ」先輩は顔の前で手を振る。
「分かってます」あたしは即答する。
 まず、絵を描くことに対して、いいよって笑顔で言った先輩がすごい。それでこの絵であたしが分かるだろうと思ってるところがまたすごい。やっぱり自分のこと把握できてないな。
「ごめんなさい。あたしの頭では分かりません」あたしは頭を下げる。
「……そう」
 先輩は残念そうに眉毛をハの字にした。
「じゃあまた後で考えよう」
 そう言うと、今度は柔らかく微笑む。先輩のこの表情を見る度に、いつもドキッとしてしまう。それはたぶん、あたしとは違って自然に笑ってるからなんだと思う。


 思い出し話が中止になったので、あたしは自分の席に戻っていた。先輩は数分前みたいに頬杖を突いて黒板を見つめている。
 たまに考えることがある。『普通のカップルなら今、何をするんだろう』と。ここは暗いから静かにしていれば何をしていても外からじゃ分からないし、もし大きめの声を出しても人が寄り付かない場所だから結局バレない。誰も侵入してこない領域に恋人同士の二人だけなわけだから、少しくらいは恋人らしいことをするんじゃないかとあたしは思う。例えば手をつないだりとか?
 そう! 手をつなぐ! あたしまだ湊先輩と手もつないだことがない!
 実は未だに恋人らしいことはしていなかったり。……でもそれはどうだっていい。湊先輩が一緒にいるだけでいいと思っているなら、あたしはそれで満足なのだ。イチャイチャとかベタベタとかするのが好きじゃない身としては、湊先輩ほど恋人に相応しい人はいない。先輩の淡泊加減たらない。もう最高。
 ただ、たまに――ごくたまに考えることがある。本当にごくたまに、邪念があたしの頭の中に生まれてしまうのだ。……欲ってヤダね。ベタベタするの好きじゃないくせに。
 どうしたらその柔らかい眼差しを黒板じゃなくてあたしに向けてくれるのか。どう言ったらその長い指をあたしの指と絡めてくれるのか。どう見上げたらその細くて薄っぺらな体であたしを抱きしめてくれるのか。どう迫ったら――
「ねぇ。恭子」
 その魅惑的な声であたしの名前を呼ぶ唇が、あたしの無表情な唇に触れてくれるのか。
「今、いつもと違うこと考えてた?」先輩は親指と薬指でメガネを押し上げる。
 ……バレてるし!
「いいえ」あたしは首を横に振る。「そう見えましたか?」
 この人の頭の中を一度覗いてみたい。どうしてこうも表情の欠如したあたしの顔から心を読み取ってしまえるのか。もし先輩ビジョンで今のあたしを見たら、あたしは目を大きく見開いてびっくりした顔でもしてるんだろうか。
「そういう顔してたから」
 先輩は寝癖頭に手を持っていき、さらにくしゃくしゃにした。髪型を直す気も萎える。
 あたしの雰囲気じゃなくて、この無表情(先輩にこう見えてるかは分かりませんが)を見て心を言い当ててしまうのだから参ってしまう。隠しごとなんかできないじゃないですか。
「……本当は考えてました。いつもと違うこと」
 とても口にはできませんけど。
「色々考えるのはいいことだ」
 と、湊先輩は人差し指を立てる。考えていた内容を聞いてこないところは先輩らしい。淡泊万歳である。
「あ……」
 あたしの顔を見てそんなことをつぶやいて立ち上がり、教室の後ろのドアに向かった。猫背は相変わらずで、手をブレザーのポケットに入れて。そっか。もうそんな時間なんだ。あたしは耳を澄ましてみるが、予兆の音は聞こえない。湊先輩は恐ろしいほど耳がいい。
「シャチが来た」
 と言う先輩の声は、安心しきったものだった。あたしの位置からだと顔は見えないけど、きっとうれしそうな表情をしてるんだと思う。そんなことを考えていたら、あたしにもやっと音が聞こえてきた。湊先輩とあたしだけの空間が消えるまでのカウントダウンを刻む足音が。
 ドアの窓から人影が見えたのと同時に、湊先輩がその正面に到着した。右手をポケットから出して、その流れでドアの鍵を外す。静かな教室にこの音は少し刺激が強いので、あたしはいつも耳を塞いでおく。耳のいい先輩はなぜか大丈夫らしくて、そのままドアを開けて外にいた人物を中に招待する。
「はい、ありがとね湊」
 先輩を『湊』と呼び捨てにするその人は、この空間に入るのを唯一許されている生徒会長。生徒会長だから許されてるんじゃなくて、湊先輩の幼なじみ兼親友で姉的存在のシャチさんだから。
「こんにちは」
 会長が手を振りながら近付いてくるので、あたしは立ち上がって会釈する。会長も上級生だから。
 あたしより少し背が高く、湊先輩と違って体にちゃんと凹凸がある。普段は着用の義務はないのに、ブレザーのボタンを全てはめてネクタイまで締めないと落ち着かないという人。正面から見て右の前髪を白いヘアピンで留めていて、後ろ髪はアップにしている。鼻筋の通った美人だけど、湊先輩と話している時は眉間にしわが寄ることが多い。怒った顔というより、困った顔。
 会長はあたしの側まで来ると小さな声で話し始めた。
「風の噂に聞いたけど、授業中ほとんどぼーっとしてて先生の話聞いてないんだって?」
 おぉ、タイムリーな。
 これはただの会話で、会長は怒っているわけじゃない。この人は勉強しかできないカチコチの生徒会長じゃなく、立候補者がいないので先生に指名されて生徒会長にさせられてしまった『頭の回転が速い不運な人』なのだ。本人曰わく、すぐにでもやめたいらしい。
「さすがに毎時間ぼーっとしてちゃダメよ。じゃないと湊みたいに頭悪くなるから」
 会長は湊先輩に関するコメントが実にストレートでいらっしゃる。
「安心してください。ぼーっとなんてしてませんから。あたしは授業中もちゃんと、湊先輩のことだけ考えてるんです」
「ちゃんとの使い方が間違ってるのに気付いてる? あと、授業中もって聞き捨てならないけど……。はぁ」
 会長。どうしてそこでため息なんかつくんですか? あぁ。おでこに手まで当てて。しかも遠い目してるっ!
「恭子ちゃんと湊が付き合うようになってから、私の苦労が一気に増えたわ」
「大丈夫です。ちゃんとノートは取ってますから」
 あたしは先輩の机にあるノートを会長に渡した。湊先輩はやっと戻ってきて、自分の定位置に座って黒板を眺める。
「そういうことじゃないんだけどね」会長はページをパラパラとめくっていく。「それに、とても大丈夫そうにも思えないわね。これ何の授業?」
 会長があるページを指差しながらあたしに見せる。こ、これは…………カオス!
「唐突で申し訳ありませんが、会長。助けてください」
「は?」
 そんな顔しないでください。口を半開きにして眉間にしわを寄せて眉を段違いにしたら、せっかくの美人が台無しですよ。


「要約するとですね。これくらいの大きさで、丸みを帯びてて、二股になってるのが特徴です。色は赤白ピンク茶色。それで、最後のヒントがこのカオスな絵です」
 あたしでは役に立たなかった思い出し話も、幼なじみである会長ならきっと分かってくれるはずだ。これこそ最後の手段。
「まずね、湊に絵を描かせようってところが間違い。余計分からなくなるから」
 はい。それは自覚してます。黒板を見つめてる湊先輩も、少しは自覚した方がいいかと思われますがどうでしょう?
「それじゃ、私からもヒントをあげようかな」
「え? もう分かったんですか?」
 混乱させようとしてるとしか思えないようなヒント集で、湊先輩が思い出したいキーワードが分かったとうなずく会長。どういう頭してんですか。
「さすが幼なじみと言いたいところですが、なぜ答えじゃなくてヒントを教えてくれるんでしょう? あたしはもう十分モヤモヤしました。 答えをお願いします」
 異議申し立てをすると、会長は人差し指を立ててニヤッと口角を上げた。
「色々考えるのはいいことだ」
 何これ。あたし遊ばれてますか?
「それ、さっき湊先輩も言ってました。同じ格好で」
「うん。湊の受け売りだからね」
 会長はそう言って、人懐こい笑顔を浮かべた。共学だったらモテただろうなこの人。
「分かりました。時間があれなのでヒント出してください」
 あたしは軽くため息をついた。……あ。さっき会長がため息ついた時もこんな気持ちだったのかも。それじゃ悪いことしたなぁ。
「じゃあ一つめのヒントね。毛が筆になる」
 毛……?
「……動物だったんですか!?」
「恭子ちゃんて連想力が貧困なのね」
 毛が筆になる動物だと範囲が広い。リス、鹿、たぬき……ってこれ、色が当てはまらないんじゃ? ピンクの動物はカバしか思い付かないけど、筆にならないと思うし。あ。でも、一つだけ色が当てはまるのがあるか?
「分かりました。答えは『人間』です」
「はい、残念」会長は間髪を入れず言い放つ。
 何となく分かってました。
「二つめのヒント。色は黒もいる。ピンクは考えなくていい」
 黒い動物も範囲が広い気が。それじゃあ……。
「リス、鹿、たぬき、熊、狐あたりでどうでしょう?」
「恭子ちゃん、大きさ考えてないでしょ?」
 あぁ。忘れてた。サッカーボールより少し小さいくらいの動物。……動物の種類が思い浮かばないなんて。あたしのは湊先輩のもの忘れとはちょっと違う気がするけど。
 会長は三本指を立てて、あたしの目の前に突き出した。
「三つめのヒント。その動物はアルビノという飼育品種がある。これで分かるでしょう」
 あたしに答えが分からないようにヒントを出しているような気がしないでもない。アルビノなんて言われても、授業で習ってないから普通ぴんと来ないし。普通の高校一年生ならね。
「難しい感じの単語を出して、あたしを混乱させようと思ってるならごめんなさい。あたし、アルビノの飼育品種くらいは知ってます」
「やっと分かった? じゃあ、答えは?」
 会長が手で答えを促す。色素を持たない品種の動物で一番に思い付くのは。
「湊先輩がド忘れした動物の名称は『ネズミ』です。もしくは『ラット』」
 一瞬、会長がフリーズした。
「ラットは大きさ的には間違いとは言い切れないけど、ネズミは論外でしょ。恭子ちゃんの頭がもうちょっとメルヘンでできてたら簡単な問題なのに……。もう疲れたから湊に答え教えるわ」
 大きなため息をつく。目が虚ろってことは、正解はネズミでもラットでもなかったわけで。サッカーボール大のネズミって、考えてみたら恐ろしい。
 会長は湊先輩の肩を軽く叩いて、持っていたノートの湊画伯のカオス絵(動物だけど)を指差した。
「ねぇ。湊が思い出したかったこれって『ウサギ』よね?」
 先輩は頬杖をやめてノートに視線を落とし、そしてにっこり微笑んだ。
「うん。……そうだ。ウサギだった。ありがとうシャチ」
 ……二股って耳のことかっ! 毛は茶色とか黒とか季節により白で。赤はアルビノの目か。なるほど。
「ニンジンも描いたのね。下手だから全然ヒントになってなかったみたいよ」
 会長は笑いながらウサギの周りのクラッカーみたいなやつをポンポン叩いた。それニンジンだったんですか!? あたしもまだまだ会長の領域に達してないってことだな。
 湊先輩との会話をスムーズに進めるには、あたしの連想力も鍛えないといけないらしい。じゃないと、あの笑顔が会長に向けられるばっかりになってしまう。ここだけの話、あたしは会長のことを軽くライバル視していたり。ただそれは、うらやましいって気持ちかもしれないけど。
「それで、ウサギがどうしたの?」と会長。
「ん。あぁ……」湊先輩はあたしのことを指差す。「恭子はウサギっぽい」
 これはまた唐突に。会長を見てみると、眉間にしわを寄せて首をこれでもかというくらい傾げている。痛そう……。
「どういうことですか?」あたしは会長に耳打ちした。
「さぁ? 私のこと『シャチ』って命名するくらいだから、特に意味はないんじゃないかな。私も湊の全てが分かるわけじゃないから」会長はささやく。
「あたしウサギに似てる要素はないですよね?」
 そう言うと会長は、「たぶん」と言いながらうなずく。……は! もしかして――
「あたしがバニーガールの格好したら似合いそうってことじゃないですか!? でもそんなの着たくないですよ」
「話が変な方向に飛躍してるから! 湊にバニーガールがウサギって概念たぶんないし」
 会長は深くため息をついた。湊先輩は、会長とあたしを交互に見ている。耳が異様にいいくせに、こういう時の会話は耳に入ってないという不思議な人。先輩があたしのこと見てる……。あぁ。また邪念が――
「あたしがバニーガールの格好して迫ったら、湊先輩は欲情してくれますかね?」
「何でそういうことを口に出す! あと何気に意見求めないで。私には考え兼ねるわ」
「先輩は禁欲的というより無欲って感じですよね。どうしたら欲を出し……うぐっ」
 言葉が続かなかったのは、会長に口を塞がれたかららしい。あ、苦しい。
「そう言う恭子ちゃんは欲の塊ってわけね。お願いだから表情も変えずにそういうこと言わないで。私が手を放した後に話題を変えなかったら、もう恭子ちゃんのお手伝いしないから。分かった?」
 それは困るので、あたしは勢い良くうなずくしかない。何この恐ろしい笑顔。
「いい子」会長は手を放すと、あたしの頭をなでる。
 会長はどうやらこういう話が好きじゃないようだ。純なお方らしい。今度から気を付けよう。
「恭子」
「うわっ」
 目の前に湊先輩の顔があって、あたしは思わず仰け反った。心臓がバクバクいっている。だって、あの距離ならキスだってできたかも。横に会長がいるからさすがに行動には移せないけど……ってまた悪しき考えが!
「いきなりあたしの視界にカットインしてこないでください。びっくりするじゃないですか」
「言葉の割に顔は全然驚いてないわね」会長は腕を組んだ。
「……ごめん」
 下がらなくていいのに、先輩は一歩後ずさる。
「もう帰らないと」
 いつもなら会長が来た時点でみんな帰るのだが、今日はウサギの件があったので少し時間が延びてしまった。鞄にノートとペンを入れて辺りを見回すと、先輩(いつの間にか自分のリュックを背負って)と会長はすでに廊下に出ていた。鞄を肩に掛けて、早足で教室を出る。
「忘れものない?」と会長。
 あたしはうなずく。それを見た湊先輩はドアを閉め、ベストの襟ぐりから一本のヘアピンを抜いた。
「はーい。ここからいい子は見ちゃいけませーん」
 会長はあたしの両肩に手を置いて、体をクルッと半回転させた。もちろん会長もあたしと同じ方を見ている。後ろからガシガシ音がするが、よい子は気にしちゃいけないのだ。旧校舎三階の空き教室は使われていない教室で、本当は入っちゃいけないから当然鍵がかかっているわけで。それでもあたしたちがここに入れるのは、湊先輩がヘアピンでちょちょいのちょいと解錠してしまうから。……何者だって話。
 ――ガシャン。
「終わった」
 振り返ると、さっきまで手に持っていたヘアピンはベストの定位置に戻っていた。
 あたしたちは校門まで一緒に歩く。学校の敷地外に出たら、もう湊先輩とお別れしなくてはならない。帰り道が正反対なのだ。先輩はブレザーのポケットから飴を取り出し、それを会長に手渡す。見慣れた光景。次はあたしの番。湊先輩は同じようにポケットから飴を出す。
「はい。どうぞ」
 あたしは両手を受け皿にして先輩の手の下に持っていく。飴を渡してくれる時はいつも、手の平に湊先輩の指先が触れるのをあたしは期待している。そして今日も一瞬だけ触れ合って、頬が熱くなるのが自分でも分かる。
「気を付けて」
「湊先輩も」
「……私もいるわよ」
「はい、会長もお気を付けて。それじゃ、さようなら」あたしは会釈をする。
 先輩方は優しい表情で手を振った後、背中を向けて帰っていった。あたしも、二人の姿が見えなくなる前に帰るとする。
 手の平に残った余韻を指でなぞる。飴玉を包むラップの端を切って、紫色の宝石を舌の上で転がすと、思ったとおりグレープ味だった。
 ――あたしの一日は放課後から始まる、か。よく考えたらこれ訂正だな。『放課後はあたしの一日』だ。淡泊な先輩と過ごす凝縮された時間。うん。いい感じ。


 そういえば、今日はウサギが大変だったな。まさか湊先輩があんなに絵が下手とはね。あのカオス絵……。鞄からノートを取り出してカオスページを開いてみる。逆さにしても、目を細めても、残念だけどウサギには見えない。
 湊先輩が描いた絵か――


「部屋に飾ろうかな……」
2007.4.29
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あとがき
 恭子視点だと、彼女が湊といる時は無表情だということを忘れてしまいます。
 湊のヒントの出し方が下手とか言ってましたが、恭子の質問にも問題があると思うんですよね。湊と二人の時は普通なのにシャチが加わるとどんどんアホになっていく恭子を書くのは楽しいです。
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