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『毛布』『香水』『カセットテープ』



 私が朝から二段ベッドの下で体育座りをしているのは、休みの日に限ってルームメイトが部屋にいないからだ。彼女のいない空間を見ているのが寂しいので、頭から白い毛布をかぶって視界を遮ってしまう。休日はいつもそうだ。学校に行く以外は部屋にこもってばかりの私と違って、彼女はとても活発だった。
 もうすぐ門限だというのに、彼女はまだ帰ってこない。もし間に合わなかったら寮母さんにお説教されて、ますますここに帰ってくるのが遅くなる。そういうことが何度かあったが、彼女に文句を言えたためしがなかった。心配していることもうまく伝えられないくらいに、私は口下手なのだ。よくしゃべる彼女をすごいと思うが、彼女のように話ができるようになりたいとは思っていない。
 ガチャッと、ドアが開く音がした。急ぐことは何もないという感じだった。
「またあたしの毛布かぶってるね」
 呑気なものだ。こっちは門限に間に合わないかと、やきもきしていたというのに。
 彼女は毛布をめくって私を見つけ、ただいまを言う代わりにキスをしてくる。結婚式でする誓いのキスみたいで、私はこの儀式めいた行為が好きだった。
 彼女がしているイヤホンからシャカシャカという音が漏れ聞こえてくる。ふいに花のような甘ったるい匂いに襲われて、私は顔をしかめた。最近彼女は香水というものを使い始めた。その匂いだ。彼女は気に入っているらしいが、私は好きにはなれない。匂いじゃなく、香水自体が。
「お……おかえりなさい」
 特に感情の類を言葉にできない私には、それくらいしか言うことができない。ちゃんと私のところに帰ってきてくれてうれしいとか、どうして休日は恋人である私を置いて誰と遊びに行ってしまうのかとか、言いたくても上手に伝えられない。小さい頃から私の喉にはいつも、言葉の通行を禁止する標識が立てられているのだ。
 私は口下手のせいで人とうまく話せないことをよくからかわれた。入学前、初めてこの部屋を訪れた時のことだ。開いたドアの隙間から部屋の中を歩き回る人影が見え、まだ誰もいないだろうと思っていた私は、はなはだ驚愕した。ルームメイトと会う心構えができていなかったので、その場から逃げようとしたのだが、
「こんにちは、初めまして。もしかして、この部屋?」
 彼女は目ざとく私を見つけ、あまつさえ声をかけてきた。私は人と会うと、高確率で相手の機嫌を損ねる。大体が挨拶に失敗するからだ。彼女に遭遇する前に対面した寮母さんには、すでに無礼者という印象を与えてしまっていた。会うことを覚悟していた寮母さんにでさえ失敗したのだ。ふいに出会った初対面の人物に、きちんと挨拶できるはずがない。案の定うまく言葉が出てこなくて、私の心拍数は急上昇した。またからかわれるだろうか。変だと言われるだろうか。しかし彼女は微笑んだまま私を見ていた。今まで私に向けられてきた視線とは違った。私の言葉を辛抱強く待ってくれている目だった。ぎこちない挨拶をし終わった時にはもう、私は彼女を好きになっていた。
 香水の甘ったるい匂いの中に、彼女とは違う匂いが混ざっている。彼女が休日に一緒に遊ぶ誰かの香水は、ライムの匂いがする。私はその誰かさんのことを勝手に『ライムの人』と名付けていた。
 数ヶ月ほど前の休日、彼女は突然ライムの匂いをまとって帰ってきた。その時私は彼女の匂いを感じ取れなかったので激しくうろたえてしまい、白い毛布を彼女に近付けさせないようにするので精一杯だった。
 それからしばらくした休日、彼女はまたライムの匂いを付けて帰ってきたが、その日はなんと自分用に例の甘ったるい匂いの香水を買ってきたのである。ライムの人の影響であることは明らかだった。彼女は私に香水の瓶を見せながら、私の好きそうな匂いを選んだのだと笑顔で言い、その場で自分の体に吹きかけた。確かに匂いは嫌いじゃなかったが、私はその匂いに耐えかねて次の日に消臭スプレーを買いに走ったのだった。
 キスが終わると、彼女は私から離れた。音楽を聴いているので、私の出迎えの言葉が聞こえたかどうかは分からない。リュックからプレイヤー本体を取り出して、そこから突き出た巻き戻しボタンを押すと本体からシャーという音がする。しばらくするとカチンと止まった。
 彼女はこのご時世、カセットテープで音楽を楽しんでいる。若者としては珍種だろうが、私は携帯プレイヤー自体持っていないので彼女のことは言えないかもしれない。
「今日はたくさん買ってきたんだ。カセットでしょー。お土産のお菓子。あ、そうそう。こっちは新発売の味だったから、後で一緒に食べようね! あとはね、使い道がないけど見たら思わず買っちゃったよ、両面テープ。何か貼るものあったら使っていいよ」
 理由は知らないが、彼女は表と裏があるものが好きだった。カセットテープが好きなのはA面とB面があるからである。サッカーと野球があれば野球を選択するし、ボールとサイコロがあればサイコロを選択する。
 彼女にとっての表裏とは、表と裏が分かれていながらその両面の本質や役割が同じということだ。だから片方でしか情報を読み取れない多くのCDを、彼女は表裏の対象にしていない。同じ理由で鏡にも表裏の概念がないが、おもしろいものでこれがマジックミラーだと興味対象になる。それでは果たして、表裏がないメビウスの輪はどう思っているのだろう? 私の小さな疑問だ。
「遊びに行ったこと、やっぱり怒ってる?」
 私の視線に気付いたらしい。そんなに怒った表情になっていただろうか。瞬きをすると、眉間にしわが寄っているのが分かった。香水の匂いのせいだ。私は彼女に対して怒りを抱いたことはない。しかしそれを説明できないので、彼女は勘違いしたまま。
「ごめんね。分かった。すぐお風呂行ってくるからね!」
 そう言うとすぐにお風呂の支度をして部屋から飛び出していく。私はそれを見送った後、消臭スプレーを撒布した。
 彼女は表裏があるものが好きだが、表裏そのものも好んでいる。だから私を恋人に選んだのだ。彼女(表)の反対である私(裏)を。


 私がお風呂から戻ると、彼女は我がもの顔で下のベッドに座っていた。彼女はイヤホンを外し、おいでおいでと手招きをする。近付くと差し出された手に引きずり込まれ、私はベッドの上で彼女に抱き締められた。
「遊びに行っちゃってごめんね。ホントにごめんね」
 ライムの匂いを身にまとって帰ってきた日から、彼女はよく謝るようになった。私は怒っていないことを伝えようと彼女の胸に顔を埋める。お風呂上がりなので、甘ったるい匂いもライムの匂いもしない。ああ、私の好きな彼女の匂いだ。いつでもこうしてくれたら、もう白い毛布なんていらない。私は香水の匂いが嫌いなのではなく、香水が彼女の匂いを消してしまうのが嫌なのだ。
「あたし、どうしたらいいかな? どうしたら怒らせないで済むのかな?」
 こんなことを言われたのは初めてだった。思っていることは素直に口にすることは分かっていたが、私は驚いて顔を上げた。彼女が今にも泣きだしそうな表情をしていたので、さらに驚いた。私はそれでも、怒っていたわけではないと説明できない。
「遊びに行かなければいいんだろうけど、それはできないんだよ。だから香水付ければ、嫌な思いさせないかもって思った。でも結局消臭スプレーまで使わせちゃって……」
 声を震わせながらの彼女のもの言いは、香水を買ったのは私のためという風に受け取れた。ライムの人の真似をしたかったからとか、そういうことではなかったのか。私は真相を聞こうとしたが、うまく言葉にできずに彼女の気分を害してしまわないか心配で、唇がわなわな震えた。
「どうしてほしいか言って? あたし、これ以上怒らせたり悲しませたりしたくない。嫌われたくないよ。あたしを嫌いにならないで……」
 彼女は時々感傷的になる。数年前に親が離婚し、寮に入るまでは母親と二人暮らしだったそうだ。母親は経済面のことを考え父親に子供を引き取るよう言ったが、父親は聞く耳持たずに彼女の妹だけを引き取ったという。彼女は父親に嫌われたと思っていて、好きな人に嫌われるのを怖れていた。こういう時、彼女は一気に幼くなる。
「ど、どうして香水……?」
 私は震える唇で言った後、それが彼女への答えになっていないことに気付く。彼女は自分にどうしてほしいかと聞いてきたのに、私はなぜ香水を使うようになったのかと質問してしまった。
「だって、あたしがライムの香水付けて帰ったらすごい嫌な顔してたから。当たり前だよね。彼女を置いて他の女の子と遊びに行ってたのに、その子の匂いが部屋にあったら嫌だよね。あの時から、お風呂に行った後にしか近寄ってくれなかった。だからあたしも香水付けて、ライムの匂いが消せればいいと思ったんだよ。でもあたしがお風呂に行ってる間に消臭スプレーするでしょ? やっぱり他の女の匂いが気になるんだよね。傷付けたよね。ごめん……」
 最後の方、彼女はぽろぽろと泣いていた。私は手で涙を拭っていくが、止まる気配はなさそうだった。彼女は体育座りをして顔を足に埋めてしまった。小さな子供がそこにいた。
 私のためにこんなに悩んでいたなんて知らなかった。ライムの人と遊びを楽しむために香水を付けているのだと思っていた。だから私は彼女が帰ってきたら躊躇なく消臭していた。しかし本当は私にライムの匂いを感じさせまいとして、あの甘ったるい匂いで上書きしようとしていたのだ。だから私の好きそうな匂いの香水を選んでくれた。それなのに消臭スプレーを撒いていた私は、どれだけ彼女を傷付け苦しめただろう。
 私は自分の気持ちを伝えなければならない。でないと彼女だけが傷付いていく。
「……違うの」彼女の頭に手を置く。「消臭してたのは、そういう理由じゃないの」
 彼女は顔を上げた。赤くなった目を見つめながら、私は続ける。
「私が部屋に一人でいる時、どうしていつも毛布をかぶってると思う?」
 自分でも驚くほどスラスラと言葉が出てきた。彼女も瞬きをしながら驚きの表情を浮かべていた。そして私の質問に対しては、震える声で分からないと言った。
「あの毛布をかぶってるとね、あなたに抱き締められてる感じがするの。あなたの匂いが染み込んでるから。寂しい時はいつもそうしてる」
 気付くと、彼女の涙は止まっていた。
「休日に私を置いて誰かと遊びに行くのは怒ってないし、あなたに知らない女の子の匂いが付いてるのが嫌だったわけじゃない。私は、香水のせいであなたの匂いが感じ取れないのが嫌だったの。でも私のために香水を付けてたとは思わなくて、消臭スプレーを使ってた。傷付けてたのは私の方。ごめんね」
 私は彼女の手に自分の手を乗せた。
「遊びに行ってること、怒ってない?」
「怒ってない」
「休みの日はいつも部屋に置いてっちゃってるのに?」
「一人は寂しいし帰りが遅い時は心配したりするけど、怒ったことはないわ。一度も」
「じゃあじゃあ」彼女は私の手を強く握った。「あたしのこと嫌いにならない?」
 私は彼女がいつもするように、答えの代わりにキスをした。私からするのは初めてだった。幼かった彼女は唇が触れている間に、心もキスの仕方も実年齢に戻っていく。唇が解放された時、彼女がさっきよりも激しく涙を流していたと知った。


「あたし、もう香水付けないよ。あの子にも付けないでってお願いする」
 彼女は十分に自分の匂いを私に移した後、私の頭をなでながら言った。私は元の口下手に戻ってしまっていたので、またしてもうれしい気持ちを言いそびれた。
「あたしに聞いておきたいことあるよね? 質問してくれていいんだよ?」
 わざわざ質問されなくても説明できるはずなのだが、どうやら私の口から聞いてほしいようだった。頭で考えたことを言おうとすると、喉に再び言葉通行禁止の標識が立ち塞がり、文章にするのはとても無理そうだった。
「単語単語で、ゆっくりでいいから」
 彼女はそう言って、私の頬に触れる。いくつかの言葉が標識を無視した。
「だ……誰と遊んでるの?」
「一つ違いのあたしの妹。お父さんに引き取られた子。小さい頃からあたしにベッタリでね、すごくかわいいんだよ。最近ませてきてライムの香水を使ってる」
「休日はいつも、どうして?」
「お父さんは最初あたしの養育費を払う気はなかったんだけど、妹が払うようにお父さんに取り計らってくれたんだ。ただでは払わないと分かってたんだろうね。あたしが休日にあの子と遊んだら、その奉仕代として養育費を払ってほしいって言ったんだ。すごいよね。自分はお父さんに隠れずあたしに会えるし、あたしにはちゃんと養育費が入る。お父さんはあの子をあたしに会わせたくなかっただろうけど、溺愛する娘には逆らえなかったみたい」
 自分の娘に条件付きじゃないと養育費を払おうとしない人なのに、それでも彼女は父親が大好きなのだろう。彼女が嫌われたくなかった人物だ。
「妹は会う度にすごいくっついてくるんだ。香水の匂いが移っちゃうくらい。それなのにあたしの都合が悪くて会えないとお父さんにチクるんだよ。それで養育費が出なかった時があった。ひどいよね。あたしのこと好きなら言わないでくれてもいいのに」
 なるほど。それで休日、是が非でも遊びに行くわけだ。妹は本当に彼女のことが好きなのだと分かる。そしてただ甘いだけではなく、駆け引きがうまい。
「今まで付き合ってきた人たちにも同じこと言ったんだけど、誰も信じてくれなかったよ。大体みんな浮気だと疑ってた。それであたしはいつも嫌われる。浮気してると思ってた?」
 私は頭を振った。本当に一度もそう思ったことはなかった。ただそれは彼女が浮気をするはずがないと信じていたわけではなくて、部屋に一人でいるのが寂しくてたまらず、そんなことを考えている余裕がなかっただけなのだ。
「そ、それを黙ってたのは?」
「聞いてほしかったんだよ。それにあたしが自分から言ったら、先手を打って浮気を隠してるみたいで嫌だった。でもこんなことになるなら、最初から言えば良かったよね」
 彼女は申し訳なさそうな笑顔になった。
 休日は今までどおり妹と遊びに行って構わない。私に彼女のことを聞く機会を与えてくれてうれしい。そう伝えたいのだが、やっぱり感情を表現する言葉は、喉元の標識を律儀に守る。
「他に何か聞きたい?」
 そう言われて、私が何気なく体を動かすと足先に何かが当たった。カセットプレイヤーだった。中には彼女の好きなカセットテープ。表裏あるもの。私は前から聞きたかった小さな疑問を思い出した。
「メ……メ、メ……メビウスの輪ってどう思う?」
「好きでも嫌いでもないよ」
 ゆっくりと答えた彼女は、右手の人差し指と親指を立て、拳銃のような形にして手の甲をこっちに向ける。時計に見立てるなら、六時四十五分。
「くっつけて」
 彼女は左手も拳銃型にして右手の指先に付けて見せ、そしてすぐに離した。私にそうしろということらしい。私は左手を同じ形にして親指を彼女の人差し指に、人差し指は彼女の親指に触れさせる。彼女とは逆に、こっちを向いているのは手の平だ。
 どこかで見たことがあると思ったら、指で作るカメラのフレームだった。しかしフレーム内に何かを捉えているとは思えなかった。
 彼女は左手の人差し指だけを立て、自分の右手の人差し指の爪の先から時計回りに親指に向かってなぞり始めた。
「表をたどれば……」
 移動する人差し指は、彼女の親指の爪の上を通過し、私の人差し指の腹へ。
「やがて裏にたどり着く」
 そのまま私の人差し指をなぞっていく。指の付け根を通り過ぎ、親指の腹へと向かう。ただ移動しているだけなのだが、さっきまでその指で何をされていたのかを考えると、私は体が熱くなるのを抑えられなかった。
「メビウスの輪は好きでも嫌いでもないけど、あたしたちのことだとは思ってる」
 そう言われて初めて気が付いた。私と彼女が指で作っていたのはフレームなんかではなく、メビウスの輪だったということに。彼女が私たちの関係をメビウスの輪だとたとえてくれたということは、私のことをちゃんと裏だと思ってくれているのだろう。
 私は今、自分が口下手のままでいいと思っていた理由が分かった。よくしゃべる彼女とは正反対でありたかったのだ。彼女と表裏でいれば、ずっと一緒にいられると思っていたのだ。
「ぷははっ」
 突然彼女が吹き出した。私は驚いて足元のカセットプレイヤーを豪快に蹴飛ばしてしまった。笑っているせいか、彼女はそれに気付かなかったらしい。
「あたしが表裏好きなのを知ってる人はいたけど、メビウスの輪をどう思ってるかなんて聞かれたの初めてだよー」
 彼女は両手で顔を覆いながら笑っている。私も釣られて、お腹が痛くなるくらい笑ってしまった。彼女は息をするのが大変そうだった。
 しばらくして笑いが落ち着くと、彼女はベッドの端を手探りしだした。手を動かしながら、私に語りかけてくる。
「お休みの日は置いてっちゃうけど、それでも待っててくれる?」
 私は大きくうなずいて見せた。そして彼女は目的のものを探り当てたようで、一気に引っ張り上げた。白い毛布が、私と彼女の体にふわりとかぶさる。
「ありがとう」
 そう言って彼女は私を抱き締めてくれた。彼女の匂いに包まれ、幸せを感じながら私は目を閉じた。
2009.5.9
お題提供:1mの毬藻さん
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あとがき
 お題じゃないのに、完全にメビウスの輪に持ってかれた! 挿絵は、単体だと正体不明の物体だったので、腕を突っ込んで無理矢理立体っぽくしてみました。でもメビウスの輪に見えるかどうかは、別問題。
 それにしても原稿用紙2〜3枚分は遠い……。いくつも伏線を入れたがるのが、僕の悪い癖。
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