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『置き傘』『狛犬』『見張り』



 陸上部の今日のメニューは、途中から体育館で筋トレに変更された。突然の雨がグラウンドを襲ったからだ。
 部活が終わって、教室に戻る。いつもなら部室からそのまま帰ってしまうけど、今日はそうもいかない。朝の天気予報で雨が降るとは言っていなかったから、傘を持ってきていなかった。それでも焦らないのは、ちゃんと教室に置き傘があるから。
 自分のロッカーまでたどり着き、しゃがんで中を覗く。隅っこに赤い折りたたみ傘が――ない?
「折りたたみ傘知らない? 赤いやつ」
 教室に残っていた友達に聞いてみるけど、みんな知らないようだった。もしかして、前に使った時のまま学校に持ってきてなかったとか? いや、まさか。絶対に持ってきた。というか、部活に行く前に見たし。それがなくなるなんて、誰かが持って行ったに違いない。
 柄に名前のシールが張ってあるけど、盗まれたとするならどうせもう剥がされているだろう。犯人捜しは無理そうだ。全体が同じ赤じゃなくて微妙に違う赤だったから、花みたいで結構気に入っていたのに。
 部活仲間はみんな帰る方向が違う。お父さんは仕事だし、お母さんは車の免許を持っていない。迎えを頼むのは無理だ。走って帰るしかないのか……。
 家まで走ればトレーニングになるなんて殊勝な心がけ、あたしにはないけど。


 目の前は灰色の世界。ブレザーを頭にかけてはいるけど、顔には風向きのせいで吹きつけられた雨が滴っている。髪はまだそんなに濡れていないみたいだ。体の方は芯まで冷え切っている感じ。
 学校を飛び出して全速力で走っていたけど、短距離専門のあたしはその速度を維持できず、今は歩いているのとそう変わらない。制服も雨を吸ってずっしり重いし、運動靴も靴下も濡れてぐちょぐちょ。もう走る気も起こらない。服は乾かせば大丈夫だけど、鞄の中身はそうもいかないからコンビニ袋に鞄ごと入れてある。
 細い道路に視線を落とし、畑から流れ込んだ土交じりの水溜まりを踏みながら進む。そういえばもうすぐ神社を通りかかる頃だ。ちょっと疲れたから雨宿りでもさせてもらおう。本堂はそんなに大きくないけど、夏の暑い日の登下校時に一休みできるくらいの木陰はある。気が向いた時にはお賽銭をあげたりするけど、今日は持ち合わせがない。
 小走りになって神社の入り口に足を踏み入れた時、思わず足を止めてしまった。灰色だった世界が一箇所だけ鮮やかに色付いたからだった。それは、空からの恵みを受けて咲いた一輪の花のような。赤い――
 ってゆーか、あたしの傘!
 何でこんなところに? 違う。問題はそこじゃない。
 本堂の手前、向かって左側に誰かが佇んでいる。誰かがあたしの傘を差している!
 あたしはその人に近付く。革靴、紺のソックス、スカート。あたしと同じ制服だ。ロッカーから傘がなくなったんだから、そりゃ犯人は同じ学校だろう。さらに近付く。大きな雨粒が目に入る。傘を持った娘は、狛犬の横にいた。腰まで届く黒髪。本堂の方を向いていて、あたしには気付かない。絶対に逃がすもんか。
 声をかけようとした瞬間、その娘が勢い良く振り返った。知らない娘だ。あたしを見ると、大きく目を見開く。
「あ、あの!」
 あたしが傘の持ち主だと気付いたか? でも逃げようとはしない。もしかするとよっぽどの理由があったのかもしれない。人の傘を勝手に持って行ってしまうほどの。今は謝ろうとしているのかも。素直に謝るなら、許してあげてもいい。
 女の子はあたしのことをじっと見ながら、言葉の続きを口にした。
「あなた、さては泥棒ですか?」
「泥棒はお前だあああぁぁあぁああ!」
 あたしはそう叫びながら思わず掴みかかる。
「しかも居直り強盗ですか!?」
 女の子はするりと避けて、あたしから離れた。長い髪が束になって揺れ、水滴を飛び散らす。
「ふざけるなよ……」
 自分が盗んだくせにあたしを強盗呼ばわりするなんて。許さん。謝ったってもう許してやらない!
 そう思った瞬間、犯人はあたしの横を駆け抜けていた。身の危険を感じたのか、なかなか素早い。あたしから逃げるとはいい度胸だ。
「陸上部なめんな!」
 あたしはブレザーと鞄を放り出して追いかける。コンビニ袋が石畳をずった音がしたけど、破れて鞄が濡れてもこの際仕方ない。
 神社の敷地から出ようとする犯人は、あたしの傘を持ったまま逃げる。あれじゃ風を受けて走るのが遅くなる。傘の骨が逆に折れてしまう前に捕まえなきゃ――
「えいっ」
 赤い物体がこっちに飛んできた。
「うわっ!?」
 思わず手で払う。石畳を転がる傘の柄には、あたしの名前が入ったシール。やっぱこれ、あたしの傘。走るのに邪魔だと思って捨てたのか。完全に逃げの態勢に入ったらしい。
 傘は返ってきたけど、あたしの怒りは収まるはずがない。犯人は道路に出て右に走っていく。あたしは傘を放置して加速する。道路に出ると水溜まりに足を突っ込んでしまい、水しぶきの自打球。スカートも足も泥だらけだ。部活でもこんなに汚れたことはない。
 道路は直線だから、こっちのもん。運動靴が革靴に、陸上部が他の部に、ショートカットがロングヘアーに負けるわけにはいかんのだ!
 案の定、あたしはすぐに追いついた。逃げる時の瞬発力は大したものだったけど、足自体は速くなかったらしい。犯人の腕を掴む。
「ちょっと来い!」
 逃げる人を止めるには、引っ張るより押す方がいいと聞いたことがある。自分の走る勢いで前のめりに倒れてしまうのだそうだ。犯人を止める時、一瞬そうしようかと思ったけど、女の子だからやめておいた。
 そのまま犯人を神社に引っ張っていく。傘とブレザーと鞄も回収。幸い、コンビニ袋は破れていなかった。
 本堂の屋根の下に入ると、あたしたちの足元はあっという間に水浸しになった。一段高くなったコンクリには、犬のストラップが付いた鞄が置かれていて、そこにはすでに水の染みが広がっていた。
「あんたの鞄?」
「うん」
 あたしは犯人の腕を放し、ブレザーと鞄を犯人の鞄の横に置く。傘は閉じて持ったままにする。
「泥棒はあんたの方じゃん」
「え?」
 犯人は毛先からぽたぽた雫を垂らしながら首を傾げる。なんて白々しい。
「わざわざ人の教室まで来て、あたしのロッカーから持ってったんでしょ? あたしの傘。だから逃げたんでしょ?」
 そう言うと、犯人は口を開けて納得したようにうなずく。
「あーあー。傘の持ち主さんですかー。泥棒と間違えてごめんなさい」
 頭を下げられ、その勢いで十分に水を含んだ長い髪がムチのように襲ってくる。体を仰け反らせて回避したけど、毛先から放たれた水までは避けきれず顔に被弾した。あたしは顔を拭う。
「いや、傘を持ってったことを謝ってほしいんだけど」
 犯人は一度頭を上げて、再び腰から勢い良く折れる。
「そうですよね。泥棒してごめんなさい!」
 今度は横に避けたので、被弾せずに済んだ。謝っても許してやるもんかと思っていたのに、素直に謝られたらなんだか毒気を抜かれてしまった。怒りが雨に流されてしまったみたいだ。
「名前は?」
小上こがみです」
「……何であたしの傘を持ってったの?」
 あたしはコンクリの段差に腰掛ける。全身濡れているから、感触が気持ち悪い。小上さんも横に座った。滴る水が、髪とコンクリをつなぐ。
「実は最近、賽銭箱のお金が盗まれたんだそうです」
 小上さんの目線があたしを通り越したところ、賽銭箱に行く。
「私はよくここに来るから、賽銭泥棒が来ないか見張りを、自主的に。さっき逃げたのは、賽銭泥棒が居直り強盗になったのかと思って」
 だからあたしに泥棒かどうか聞いてきたのか。泥棒がちゃんと答えるわけないのに。
「傘を盗んだのは、見張りをするためってわけ?」
 見張りっていうのも、勝手にやっているだけのような感じが否めないけど。
 でも、何か引っかかる。学校から神社に来るまで濡れないように傘を持って行ったなら、どうして神社に来てからも傘を差して立っていたんだろう。ちょうど神社に来たところだった? いや、本堂の屋根の下に鞄が置いてあったから、それは違う。それに、賽銭泥棒が来るか周囲を注意していたとしても、わざわざ雨の中傘を差している必要はない。傘のせいで視界は狭まるし、何より賽銭箱の隣に座っていればいいんだから。今と同じみたいに。
 なぜ雨の中にいたのか分からなくて、あたしは頭を掻く。さっきまでブレザーをかぶっていたおかげで、少し滴る程度にしか濡れていなかった。そこであたしは気付いて、手を止める。
 小上さんの長い髪から落ちる水は未だに勢いを止めず、コンクリに染みを広げ続けている。相当髪に水を含んでいるということだ。傘を投げ捨ててからここに連行されるまでの間に、こんなに濡れてしまった? あたしよりずっと髪が長いのに?
 よく考えれば、制服もあたしと同じくらいびっしょりしているし、あたしが屋根の下に来た時、小上さんの鞄はすでに濡れていた。
 まさかこの娘、あたしの傘を持って行っておきながら差してなかったんじゃ?
「ねえ、何でびしょ濡れなの? あたしの傘は使わなかったの?」
 あたしが言うと、小上さんはにっこり微笑んだ。
「ちゃんと使いましたよー。傘は狛犬に差すために拝借したんです」
「はぁ?」
 狛犬に差しかけるって何さ。
「だから私はびちょびちょ」
 狛犬用の傘だから、自分は差さなかったってこと? 変に律儀な娘だ。あたしが傘を見つけた時は、狛犬が濡れないように傘を差してあげていたと。
「でも、何で狛犬に?」
「私は犬が好きなんですけど、お母さんが犬アレルギーだから飼えないんです。だから代わりに狛犬のお世話を」
 よくここに来る理由ってこれか。そういえば鞄に犬のストラップが付いていた。
「ってゆーか、狛犬って犬じゃないじゃん。似てるだけで」
「え? そうなの!?」
 小上さんの目が、あたしを見つけた時みたいに大きく見開かれた。あたしがうなずくと、みるみる小上さんの顔が情けないものになっていく。本気で犬だと思っていたらしい。
 そもそも、そこの狛犬は石像だから生き物でもない。それをお世話だなんて。なんだかかわいそうになってきた。小上さんの頭が。もしかして餌とかもあげていたりするんだろうか。ちょっと怖くて聞けない。
 別のことを聞いてみることにした。
「ここには狛犬、一対あるけど、何で片方だけに傘差してたの?」
 人の傘を持って行ってしまうくらいだから、もう一本盗んで両方濡れないようにしそうなもんだけど。
「それは、こっちの狛犬が口を閉じてるからでー」
 小上さんは向かって右側の狛犬を指差す。傘を差してあげていた方だ。あたしの理解力が足らないせいなのか、そう言われても分からない。
 今度は反対側の狛犬を指差す。
「あっちの狛犬が口を開けてるのは、きっと喉が渇いてるからなんです。だから雨水を飲ませてあげるために、傘は差さない」
 口から幸せを入れるためだった気がするけど……あれ? それはシーサーか。とりあえず、喉が渇いているわけじゃなかったはず。再び口が閉じている方の狛犬を指差す小上さん。
「こっちの狛犬は口の中に水が入るのが嫌なんです。だから傘を差し出しましたっ!」
 輝くような自信満々の笑顔で言う。あたしは頭が痛くなってきた。こんな変な人とはおさらばして、早く帰らないといけないような気がする。今さらながら、小上さんは一緒にいちゃいけない類の人だ。
「私とこんなにたくさんお話ししてくれた人は初めて! 犬は好きですか?」
 小上さんは、ぱっと明るい笑顔になった。
 あたしは答えずに立ち上がってブレザーを羽織り、コンビニ袋に包まれた鞄を抱える。
「傘の入れものは?」
 小上さんは困惑気味にブレザーのポケットから赤い袋を取り出した。それを引ったくるようにすると、びくっと体を震わせた。あたしは傘を広げる。
「これはあたしの置き傘だから持ってく。文句なんてないでしょ?」
 つっけんどんに言い放つと、小上さんはこくりとうなずいた。泣きだしそうな表情なのは、きっと狛犬が犬じゃないと知ったからだ。絶対にそう。
 あたしは傘を差して本堂から離れた。傘が雨を弾く音がする。世界は灰色。さっきより雨脚が強くなっているみたいだった。
 あたしは振り返らずに、全速力で走った。
 走っている間、なぜか悲しそうな小上さんの顔が頭から離れなかった。あんな冷たく言わなくても良かったかもしれない。そんなにたくさん会話していないのに、たくさん話してくれた人は初めてだと言っていた。変わってるもんな、あの娘。友達いないのかも。
 あたしはいつしか傘を畳んでいて、全身を雨に打たれながら家に向かっていた。もう十分に水分を吸収しているはずなのに、制服がさっきよりもずっと重く感じる。大粒の雨が顔に当たって痛い。目を開けているのも辛くて、雨粒のせいでなんだか熱くなってきた。
 ああ、何でつっけんどんに言ってしまったんだろう。傘のことなんて、もう怒っていなかったのに。変な人ではあったけど、きっと小上さんは、あたしと話がしたかっただけなんだ。
 家にたどり着いてドアを開けると、水を撒き散らしながら風呂場に向かった。タオルを何枚か掴んでビニール袋に押し込む。お母さんが何か言っていたような気がしたけど、返事をしないまま赤い傘を持って家を飛び出した。
「陸上部なめんなああぁあ!」
 泥交じりの水しぶきを上げながら道路を走り、神社の前まで来る。石畳に足をかけ、灰色の世界に目を凝らす。まだいるかな? 帰っちゃったかな?
 本堂の屋根の下に、一対の狛犬の間に、賽銭箱の左側に、ちょこんと座る人影。その姿を確認して、石畳の中央をゆっくりと進む。賽銭箱の前まで来た時、小上さんが気付いて顔を上げた。その表情に、あたしの胸は疼いた。やっぱり目を大きく見開いていて、でもそこからは雨とは違うものが滝のように流れていた。真っ赤な目が、あたしを見上げる。
「あぅ、あの……」
 口をぱくぱくさせているけど、その後の言葉が続かないらしい。たぶん、どうして戻ってきたのかを聞きたいんだと思うけど、あたしは何て言えばいいんだろう。
 前髪から水が滴る。額を伝っていく。目に入って、思わずしばたたく。
「お、お賽銭あげに来ただけ」
 口から出てきた言葉があまりにぶっきらぼうで、自分の失態に眉間にしわを寄せてしまった。小上さんの眉がさらに下がる。違う。小上さんに対して怒ってるわけじゃないのに、それがうまく表現できない。
 タオル入りのビニール袋を投げつけると、小上さんは抱え込むように正面キャッチをした。腕の中にあるものを真っ赤な目で見て、首を傾げる。傘も放ると、素早く右手の中に収めた。やっぱり反射神経はいいみたい。
 あたしはくるっと半回転して、石畳の上を走る。
「あ、あの、お賽銭は?」
 震えている、でも雨の間を縫って、小上さんの声はちゃんとあたしのところまで届いた。だからあたしは、前を向いたまま答える。
「もうあげた!」
「え?」
 石畳の終わりまで来た時、あたしは振り返る。灰色の世界に赤い花の蕾を見つけ、そこ目がけて叫んだ。
「うるさい! 早く帰れ!」
 それだけ言って、神社の敷地から飛び出した。もっと他に言い方がなかったのかと反省しながら、振り返らないで家まで走り続けた。


 あたしは風邪で寝込んだ。当然、昨日雨に濡れすぎたせい。学校もお休みした。体がダルいのは昨日の筋トレのせいなのか、雨の中走ったからなのか、熱のせいなのかいまいち分からない。たぶん全部だろうけど。
 ちょうど今頃は部活の時間帯。今日も雨だから、陸上部は筋トレか。二日連続で筋トレをやらずに済んだのは良かったかもしれない。
 ノックの後、すぐにドアが開く音がした。お母さんが氷枕の替えでも持ってきたのかと、頭だけそっちに向ける。でも入ってきたのは――
「げっ! 何で家分かった!?」
「傘のシールで名前は知ってたので、近所の人に聞きましたー」
 小上さんだった。しかも氷枕付き。制服姿だったけど、見事に乾いているようだった。髪もさらさら揺れている。
 それにしても近所の人に聞いたって、雨なのに出歩いている人がいたんだろうか。もしかして、わざわざご近所さんの家まで行って聞いたんじゃ……。人の教室から傘を持って行くくらいだ。小上さんならやりかねない。
「狛犬に傘差しに行かなくていいの? 今日も雨だけど」
 思わぬ来訪者に軽く混乱し、なんだか言うべきことと違うことを口にしてしまう。昨日は優しい言葉をかけられなかったから、目も見られなかった。ちらりと小上さんの顔を見ると、にかっと笑った。思わず目を逸らす。
「いいの。狛犬は犬じゃなかったから」
 そう言って、ベッドの傍らに膝立ちになった。
「ってゆーか、何しに来たの?」
 どうしてかあたしは不機嫌な口調になってしまう。
「お世話しに、です。狛犬が犬じゃなかったから、代わりに」
 小上さんは手の平を上にして手首を上下に動かす。どうやら頭を浮かせろということらしい。仕方ないのでそのとおりにすると、氷枕を引っこ抜かれた。
「あたし、犬じゃないんだけど……。傘とタオル返しに来たのかと思った」
 新しい氷枕を差し入れてくれたので、頭を乗せる。ひんやりして気持ちいい。
「タオルは洗濯して、さっきお母様にお返ししました。ホントは学校で返そうと思ったけど、休みだっていうから家にお邪魔しました。お見舞いじゃないですよ? お世話しに来たんですよー?」
 床に腰を下ろし、なんだか得意気に人差し指と中指を立てている。昨日の別れ際とは大違いだ。
「……傘は?」
 あたしの言葉に、小上さんはピースをしたまま目をぱちくり。あまつさえ小首をかしげやがった。なんてことだ。
「え? あれはお賽銭じゃないんですか? 私への」
「じゃあ何でタオルは返したんだ」
 本気なのか冗談なのか分からない。あたしは思わず眉間にしわを寄せてしまう。
 小上さんは冷たさを失った氷枕を胸に抱きながら、今度は反対方向に小首を傾げる。あたしはなんとなく昨日の泣き顔を思い出してしまって、低く唸った。
「いいよ、もう。あげるよ……」
 寄っていた眉間のしわもほぐれていく。
「雨の日はあの赤い置き傘で迎えに行きますね!」
 部活終わりまで待っているつもりなのか、あんたは。というかあの傘は折りたたみだから、二人も入れないと思うけど。
 なんか変なのに懐かれてしまったみたいだ。頭が痛くなってきた。
「その置き傘、盗まれたら承知しないから」
 どうせ盗むのなんて小上さんくらいなもんだろうから、盗られる心配はないけど。
「うん! 分かりましたっ!」
 赤い蕾が開いたような表情に、あたしは不覚にも当てられそうになる。
「分かったなら、いいけど……」
 また不機嫌そうな声を出して、ようやく自覚する。昨日は泣かせてしまったのに、今日こうして小上さんがお世話しに来てくれたことがうれしくて、照れてしまっていたんだ。不機嫌そうな声は、あたしの照れ隠しなんだ。
 あたしは掛け布団を引き上げる。隠れた口元に、小上さんの笑顔が伝染していたから。
「雨の日が楽しみですよっ」
「言っとくけど、迎えに来ていいのはあたしが傘を忘れた時だけだから」
 残念がるかと思ったら、小上さんは意外にもにこにこしたまま大きくうなずいた。なぜかちょっとだけ目が潤んでいて、それを見たあたしは掛け布団を頭まで引っ張り上げて、表に出てくる色々なものを隠すしかなかった。


 傘を忘れてしまう日だって、きっとそのうちやって来る。
2009.5.9
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あとがき
 一番最初なので、お題は私の愛読書広辞苑で適当に選びました。三題噺は短くまとめる練習にしようと思っています。具体的には原稿用紙2〜3枚分ですね。

 短くまとめようとした結果がこれだよ!

 しかも無駄に長くてとりとめのない話になってしまった……。もっと精進せねばなりませんな。どうでもいいですが、小上は『拝み』から。
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